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February 04, 2005

神様のボート

■著者 江國香織
■星 ☆☆☆

神様のボート
江國 香織

新潮社 2002-06
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■説明 
母の葉子と小学生の娘の草子は、二人暮し。引越しを繰り返している。そのわけは母がひとところにいついてしまいたくないという理由。母曰く「昔、私が激しく恋に落ちたあのひと=娘の父がいつか見つけてくれるから」「あのひとのいない場所になじむわけにはいかない」と。

■感想
この本を知ったきっかけが、あまりよいものではなかったので、否定的な思いがこの本を読もうと思うと一緒にどうしても出てきてしまう。でも、彼女は児童文学から出発して数々の賞をとった人気の作家であるから、一度は読んでみたほうが良いのではないかと思っていたところ。(といっても、「草之丞の話」は検索したところ純粋に子供向けの童話なのかどうかとおもうところがある。>実物を読んでないけれど)

 そういう思いをできるだけ切り分けて切り捨てて、できるかぎり公平にこの本を見て感想を書いてみようと思う。


どこからどこまでが、葉子の空想の世界の出来事なのか。どこからどこまでが現実のことなのか。
水に映った像のようにとらえどころのない物語だとおもう。いや、一番現実味をおびているのは葉子を映した草子の言葉だ。草子に映った姿こそが一番現実感を伴っているところが不安定でとらえどころがない印象を増幅しているとおもう。

以下多少ネタバレ

 
 話は、過去の「骨ごと溶けるよう」な恋愛を引きずって生きている現実味のない母と、その母の気まぐれな引越し生活にいやおうなしにひきずられ、それを受け入れながらしっかりと現実を見据えて育っていく娘の物語。母が自分の夢の世界の記憶の中にある美しい思い出の一片として閉じ込めていたと思った娘は、やがて成長し、母の夢の中から巣立っていってしまう。

 読む人によりものすごく感想の異なる物語であると思う。

たとえば、あまりにも現実的な日常に飽き飽きした妻は葉子のようになりたいと思うかもしれない。娘と二人で気の向くままの放浪暮らしであったとしても、彼女の手元には前の夫が使ってくれと残してくれた預金がある。多少のことがあっても、現在はその金は使うことはなくとも路頭に迷うことはない。娘の成績は良いので、成績面で進路に悩むこともなく、娘の芸術的才能を見つけて喜ぶ。わかれた夫は自分に未練をもっていたが、自分から切り捨てて出てきた。なぜなら、自分は「骨ごと溶けるような恋」をしたから。
 行く先々で、彼女は「美人」と言われ、勤め先では必ず男性のファンがつく。実家の父も母も健在。まるで「寅さん」のように、自分勝手で責任のない自由な人生。そうして、本人がこの生活をやめたいと思ったとき、いつでも安穏とした暮らしに戻れるだけの選択肢がいくつかあるのだ。

 学生から社会人になったとき、一時期その窮屈さに息がつまりそうだった。自由に自分の時間割を決めていた学生時代とは違い、毎日決まった時間に出社する必要はあったし、休みだらけの大学生に比べて新入社員の年次休暇はあまりにも少ない。それと似た窮屈さを 子どもを持った主婦は感じていると思う。実際私も、自由だった独身時代や、結婚後息子が生まれるまでの自由な日々が懐かしくなることも多い。もう一度すべてのしがらみから自由になってみたいと思ったりすることもある。

 インモラルという言葉にやわらかくしばられている葉子は、言葉のうえでも微妙な位置をふわふわと漂っている。娘の草子の口から 「パパのつくるシシリアンキスは『倒れそうに甘くて病み付きになる味』だったそうだ。」と、下品にならない程度の想像力をかきたてるような表現で語らせる。まぎれもない日常に、まったく似つかわしくないような少しエロチックな形容を加味してあるところなどが女性に受けるのかもしれないとも思った。草子の口を通して語られる葉子の「あの人」の思い出はまるで映画の中のシーンのようで、現実味がない。それが「あきらかに恋」だということだろう。あからさま過ぎる描写ではなくあくまでもソフトなところが江国さんの文の持ち味だろうと思う。
「後悔したことはないけれど、ほんのときたま、ふいにとても恐ろしくなる。ずいぶん遠くまできてしまったから」などという表現はうまいとうなってしまった。

以下多少ネタバレ

 葉子が狂っているとはどこにも書いていない。しかし、草子は、母の語る父の思い出をそのまま代弁しながら最後に「でもあたしはほんとは知っている。ママはパパと旅にでたことなんて一度もないって」と語らせることで事足りているとおもう。

 さて、読み終わってここまで書いてやっぱりこれは童話なのかもしれないと思った。
良い童話といわれているものは昔ばなしのように勧善懲悪がはっきりしているものではなく、日常と非日常の境目あたりをふわふわとただよっているような、ありそうでなさそうな話も多い。そうして主役は読み手によって変わる。

 いつまでも、子どものように自分の足で立って歩くことを嫌う甘ったれの母親。現実を見ようとしない母親を持つ大人びた娘の自立の物語として捕らえることもできるだろうし、一目垣間見た王子を待ち続けながら暮らしている夢見がちな大人の女の物語としても捕らえられるだろう。

葉子として読むか草子として読むか。はたまた男性が読んだらどうだろう。夢物語のように自分を語る女の頭の中では自分は神格化され、それほどまでに恋焦がれられてみたいと思うかもしれない。
はたまた、あまりの執着に恐ろしさを感じるかもしれない。

ハッピーエンドとして捉えることもできるし、そのハッピーエンドはもしかしたら彼女の頭の中だけのものだったとしてもとらえられる。(つまり悲劇?としても)

 覗く人によって違う印象を持つようなそういう本。ある人はすっきりと澄みわたった水と見るけれど、別の人がみればどよどよとよどんだ水のようにも見えるかのような、決して気持ちよいだけものではない不思議な後味の話である。

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