大王は大事をとって昨日も休み。私は予定があったので出勤。pon1が休んでくれた。助かった。
帰りに。「そうだ。今日は走らなくても良いんだ。それに今日は絶対にこの電車に乗らなければいけないんではないんだ。」と気がつく。
毎日毎日、絶対にこの電車にのらなければいけない帰宅。乗り換え2分。絶対に走らないとダメ。
という生活からしばし解き放たれる。やった〜。
立川でふと、「ああ、そうだ。店によること自体 年に何回あるだろう(たぶん3回くらい?)今どんな洋服が売られているのだろうか。」とふと思って 立ち寄ってみることにする。
デパートの女性の洋服を売っているフロアを2フロアささっと通り過ぎること10分程度。
今年の流行は捕らえどころがない。 バッチイ系とレトロ系と少し前まであった大胆系など多岐にわたっている様子。さらっと回っただけではサッパリ分からない。
内心「コレくらいバリエーションがあれば 多少どんな格好していようが平気かも」と思ったり。
通りすがりに見つけたのが飴玉くらいの大きな シトリン(黄水晶)を繋いだ大きなブレスレット。
綺麗だなあ。欲しいなあと一瞬通り過ぎて帰る前にもう一度見て決断。「ほしい。」
本当だったらグゥイネスパルトロウのような 細くて上背のある人がつけると格好良さそう。
サンドベージューの薄手のシンプルなセーターやざっくり編んだ生成りのセーターなどに似合いそうだなあと思いながら。購入!
お店の人が「いつもは石の説明をつけているんですけれど、今日は切らしていて。」と済まなそうに言うのでふと見ると、石のパワーなるものの説明があった。
あまりそういうことは気にしないので、送付してくれるというのを辞退。帰宅して包みをみると 「使う前に石を浄化しましょう」と岩塩の粒が入っていた。(びっくり)
検索してみると、シトリンは 元気を与える石だそうで、風水は金運を呼び無駄遣いを押さえるとか。体調不良にも効果を発揮。などいろいろと良いことが書いてあった。ふ〜ん。
http://www.b-stone.net/PowerStone/commentary/Citrin.html
最近はこう言うのも流行っているんですね。
15分位の短い時間だったけど、面白くてリフレッシュできた。今日はまたもや本ネタです。
■真昼の悪魔
先日書いた 遠藤周作の本です。 ある意味感想が書きにくい本でした。
遠藤周作さんがクリスチャンだということを知っていたので、気になって余計に私の中でさらっと読めない部分があったのかもしれません。
私はほぼ無宗教。でも、その人がどういう宗教を信じているかというのは強引な勧誘など迷惑がかからない限り気にしません。
冒頭に神父さんが 「エクソシスト」を例にとって 悪魔は実在する と説く場面からこの物語は始まります。 主人公は美貌で愛らしい笑顔をもつ女医。
物語の中には なんとも殺伐とした事件が沢山でてきます。
以前書いた「陰陽師」や「霊験お初」という 私が好きなうらみつらみにも原因があり、それが消えることによって その恨みが消えるような そういう事件とは、対極にあると思えるどろどろとした事件が出てきます。ここでは「いやらしい悪」という名前でかたられています。
ネタバレなので 色を変えて。
最近起こる理解不能な事件。まったくそれと同じような動機で、いえ、動機はないと言ったほうがよいかもしれない。そんな事件がどんどんと起こります。 そうして、それがなにひとつ解決しない。現代の苛立ち 理解できない不安感。焦燥感。それが最後まで続くというような読後感です。
たとえば、最近の不快感を覚える事件とは結局はどういうものだろうかと自問すると 「自分勝手」というキーワードがありそうに思います。 相手も自分と同等の人間としてみることなくただ、「自分が不快だから」「自分がうまくいかないから」「自分がやりたかったから」という理由であり、そこにはそれ以上の説明がつかないものが多いです。 それが、世間の人たちには理解不能であり、行動が予測できない恐ろしさを感じさせます。
「友達が欲しかったから監禁した」「自分の人生がうまくいかないからできるだけ金持ちの子供を殺害した」「借金をばらされそうだったから殺した」 そこには自分しかありません。いずれも相手を人間として見ていないという共通点があります。自分だけを見つめ自分だけが大事で 相手を都合の良い存在として認めることがあっても人間として見ない。 この本の主人公の女医もまさにそういう人です。自分が罪悪感を感じてみたい。こういう悪いことをしたら少しは罪悪感を感じて空虚な気持ちがなくなるのではないか というただそういう理由で表に出ない悪事を巧妙に行います。 そうして、この小説には 勧善懲悪もなく、また宗教の目に見えた救いも現れません。発生する事件、女医の口にする言葉どれも どこかで聞いたことのあるようなものです。 クリスチャンである遠藤周作はこの本で何を言いたかったのだろう。 宗教の不在を言いたかったのだろうか。 読み終わったときに遠藤周作という人を考えてすっかりと腕組みをしてしまった本でした。
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■本能
通常金魚などを水槽で飼う場合は、エアポンプなしではあまり沢山の金魚は飼えません。それは酸素の供給など水槽の中の自然のサイクルが上手く回らないからです。
さて、その自然のサイクルに逆らって 少量の水と少量の水草で沢山の魚を飼うためには、エアポンプなどの補助的な機械を使います。機械的に水に酸素を加え、多すぎて分解できない糞などをあつめて掃除します。
うまく行っている場合は良いのですが、バランスが少し崩れてしまうと ときどき共食いという光景もあります。
ふと思ったのですが、人間達は増えすぎて エアポンプで生きている魚のような状態なのではないかと。ちょっとバランスが崩れたりすると共食いをして個体数を減らすという働きは、動物として持っている本能かもしれないと。
ギュウギュウ詰の通勤電車はだれにとっても不快です。また近所や知り合いの存在がうっとおしいと感じたことはありませんか? でも、もし、あなたの周囲で人に会おうとしたら1時間や2時間かけないと誰ともあえないような状況だったら、多分とても人恋しい思いがするのではないかと。
出産後のお母さんたちが話し相手を求めるのは 子供と自分だけという世界に閉じこもっていて人に会うことに飢餓感をおぼえているからではないでしょうか。
しかし、この問題は「本能だ」では片付けられない人間としての倫理上の問題もあります。
人間達がこうやって個体数を増やして文化というものを築き上げてきた側面には、大きな意味合いでの相互の協力や理解をもとにした発展があると思うのです。
自然界を考えたときに、なにが善・何が悪という基準はひとそれぞれ捕らえ方が違うものだろうと思うのですが、沢山の人間達皆が快適に楽しく暮らせるようにという経験上の知識の集大成が「相手を思いやる」「相手を大切にする」であり、これが崩れることは人間社会の崩壊に繋がるし、相手を不幸にすることは自分の幸福には結局は繋がらないことになるようにも思うのです。
たとえそれが本能であったとしても 理性を忘れちゃアカン!と思うのでした。
あと2ヶ月と22日。83日