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王様の耳はロバの耳(過去ログ)

普通は言わないけど、みんなどう思う?言いたいけど言う機会が無いみたいなことをおもいついたときに書こうと思ってます。

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嫉妬学 2003,6,30
先日、新刊本の紹介で
「嫉妬学」足を引っ張るエンビー嫉妬 上を目指すジェラシー嫉妬 和田秀樹著というのが舞い込んできた。
http://bpstore.nikkeibp.co.jp/cgi-bin/booksfrm/item/main/1482224332X0.html
この本。妙に気になる。というのもこの「嫉妬」「うらやみ」の感情というのはたしかに人の行動とはきっても切れないものだなあと以前から思っていたからだ。
しかし、envy にしても jealousy にしても強烈なイメージを私に与える単語なので、なかなか自分の文の中に使えない。
 
 困った時の辞書頼みということで、辞書を引いてみた。 
envy 妬み、しっと、うらやましさ、羨望。
jealusy はうらやみから相手への憎しみや憤慨まで含むとある。
ついでに英ー英辞典(これも長い間使ってなかったものだ)
jealousy: the state of mind of being jealous.
jealous: feeling fear,suspicion,and hatred towards a rival,esp.in love
feeling hatred towards a person more fortunate than onself
envy: a feeling of disappointment or ill-will at another's better fortune,possessions,etc

本の副題からすると、envyの方が足を引っ張ってjealousyの方が上を目指すのか??
どうも辞書をひいたかぎりでは、jealousのほうがなにかよからぬことをやりそうな気がするのだが。
感情の強さを言っているのかな。(なんて本の題名でいろいろ内容を想像してどうする。。。)
 今ひとつ本の中での二者の区分けが読む前には判然としない。こういう人の感情を表すというのは区分の無いところにその言語特有のグルーピングを作っているようなものだと思うので、言語間の理解がとても難しいと思う。

 たしか、以前、外国のサイトでは綺麗な花を持っている人に向かってうらやましいという表現にたしかjealous という単語を使っていた人がいた。ということはやっぱりjealousは辞書づらで見るよりも健全な言葉なんだろうか。まあ、たしかに日本語でも 「○さんの花綺麗でねたましいわあ〜」なんて口に出しているうちは罪がなくて、本当にドロドロしたものは口からは出てこないような気もするが。

この「うらやましい」という心は、多分全くもっていない人はないと思う。もし、本当に「うらやましい」の片鱗も自分の心に持っていない人がいたら、その人の人生はなんとつまらないだろう。「憧れ」や「うらやみ」があるからこそ努力したりそれを自分の手にしたときに喜びがあるという向上心に繋がっているのだと思う。ただ、その感情を自分可愛さのあまりコントロールできなくなってしまい、他人を貶めようとしたり、策略をめぐらすようになるとあまり歓迎されない状態になってしまうのではないかな。と思ったりした。

内容を見てみると、どうも私の苦手なビジネス書のようだし、悩むところだ。
 このネーミングと着眼点。売れそうな気がするが、どうだろう。宣伝次第かな?

■で、和田秀樹

和田秀樹。聞いたことがあるような気がするがどんな人だっけ?とこれまた検索。
和田秀樹といえば、ほらほら 大竹しのぶ(今朝のニュースで 第25回モスクワ国際映画祭で主演女優賞をとったらしいですね。)といろいろあった演出家で。。嘘です。それはたぶん野田秀樹。
http://www.hidekiwada.com/profile/index.html
精神科のお医者さんのようです。しかし、本は私が苦手とするビジネス系の本が多いなあ。心理学系の本は好きなんですが、HOW TO 本になると、二の足を踏んでしまう。
悩みどころですね。本屋で立ち読みしてから決めても遅くないかも。

もうひとつオマケに、あなたはシゾフレ人間か メランコ人間かなんていうページもありました。
いろいろ情報を入れるのは面倒なので、私はテストはやってないのですが、一応ご紹介。
http://www.hidekiwada.com/clinica_test/
http://www.businessstandard.jp/rensai/rensai.asp?page=7&newsid=%7BF3F4FC2A-7BCE-46A2-8DDE-88E6DE3AAF57%7D
http://www.forum-m.jp/fole/pdf/0304r_2.pdf (PDFです)

いい線ついてるなあと思うのは、最近気になっていたことで、評価基準が他人にある人が多いということ。自分が決めた目標について自己評価するのではなく、他人からの評価がすべての基準の人が多いなあと思っていたのです。「人にウケルものを選択する」「人から評価されないと興味を失う」人たち。本当に多いと思います。

 自己が成績について、理解度の尺度として冷静にテストを認識している場合と、テストの点数を取るということのみが目的になってしまった場合の差かもしれないなあと思いました。
会社でも、成果の評価のみではなく、プロセスも評価しろなんてことを言われてますがなかなか評価というものは難しい。たしかに 実験のように、ある条件を定めて その状態でバスッと切って見ないと平等な評価は難しいように思います。
 でも、あくまでも その結果はその人の能力すべてではなく、その切片での成績だということも忘れてはいけないと思うし、その切片だけでできるだけ良い成績を上げようと個人が努力する(つまり本末転倒)するということ自体がいろいろなゆがみを生んでいると思うのです。
 成績至上主義っていうか。点数さえとれれば理解してなくてもいいという姿勢とか。

どうもその辺りが 他人からの評価至上主義に繋がっているようにも思えてしょうがないんですが。

さて、話しを戻して。
私は メランコのほうが沢山入っているような気がするなあ。

まあ、こういったものは こんな風にまじめに書いてあるものでも たとえば、合コンで性格判断とか血液型を話題にしたなんていう程度にかる〜く見ておくのが吉だと私は思うので、これを読んで深く考え込んだり悩んだりしないでくださいね。
画像は ユリ フュテラ 夜に一段と香ります。

後 6ヶ月。184日だ

ほっとした 2003,6,28
いや。正直言ってほっとした。

私にはときどき「ブーム」が訪れる。先日までは「英語ブーム」だったわけである。
何度も書くが私は英語は大の苦手大嫌いだったわけだから、上手なわけはない。
 だが、なんとなくハードルが低くなってちょっとだけやってみたくなったのであった。

丁度タイミングの良いことに アメリカの園芸好きの人からメールをもらって日本のタネが欲しいとかで、ま、いいかとタネを送ってあげたりということがあったのだ。
 彼は日本のネットショップでタネを買って送って欲しいという要望があったのだが、私はそこまで暇ではないので、手持のタネの中から彼が興味を示したものを送ったのであった。

■やな予感

今考えてみたらちょっと「やな予感」があった。
返事を書いたものが届かないからと先方からメールが来たのだ。
(でも、返事が来たってわかってるんだし?)とどういう意味か今ひとつ把握できず。
彼が言うには、園芸家の中には自分のメールを盗む正直じゃないやつがいる なんて書いているので「マジですかあ〜」「ハッカーかメールサーバーの管理者くらいしかそんなことできないんじゃないですかあ〜」なんて思いながら あえてその話題には触れなかった。
 (というより、そういうことをメールで知識の無い人に説明できるほど私の英語力は高くなかったということかも。。(^^;))

■その後

なんだかんだ言いながら 種を送ってこれでOK と思っていたら、タネの蒔き方などの説明とその名称についての説明を読んだ先方が、自分の持っているカタログページを英語にしてくれないか?と頼んできたのであった。
 カタログページくらいだったらたいした手間ではないと思い、私の勉強にもなるかもしれないと 時間との兼ね合いでちょっと悩んだが OKしたのであった。

■ところが

ところが、私はオーバーフローしてしまった。いや。忙しかった。安請け合いの体質が災いした。そんな時に先方からカタログページが送られてきたので、「まあ、お金をもらっているわけではないし。いつまでにと言われているわけではないし、アサガオの播種時期は今年はもう過ぎたことだから 急いでないだろう」とタカをくくって、そのままにしていたのだ。
 届きましたか?のメールが来たのだが、これも失礼して返事を出すのがおくれていたのだった。

■すると。。やばっつ。

昨日の朝メールが届いているのを発見。ああ、いくらなんでも返事を出さないとね。と思い、朝読む時間がなかったので、「会社で眠気覚ましにやるか」と会社に転送。
 眠くなった頃に「ちょっくら」と読み始めて焦った。 一気に眠気が覚めた。

なんかヤバイ雰囲気なんですけど。
彼が言うには、「'面白いことに'私が日本に品種情報(っていっても日本の通販カタログのページコピー)を送るといつもその後日本からは返事が返ってこない」(この引用符がいやみったらしいと私は感じたのだけど)
「私は、日本人が私の送ったカタログページはそのままにして、自分には種を送ってこないのにほかの人(アメリカ人)に種を送ったのを知っている。あんたがそういうことをしてないとよいのだが。」
「あんたは本当にPON2なのか、それとも 昔自分がdescribeした人と同一人物なのか」

なんていうメールだったわけです。

■あ〜びっくり

いや。正直いうと、
「あなたが以前に誰にコンタクトしたかはしらんよ」
「日本のカタログ情報なのに、日本人の私にそれが価値があるのか?」
「つ〜か。タダで人に頼んだことなのに、ちょっと連絡がないと突然こんな風にヤバイメールを送ってくる人だったから今までの人は怖くて引いちゃったんじゃないの?」

なんて思いました。

とりあえず、思ったことを書いて返事だしたのがゆうべ。
(実際英語でトラブルになったこと、というかクレームめいたことを直接いわれたことなんてないので、うまくかけたかどうかすごく心配だったのですが)
私の日本語のメールでさえ 誤解されたりいろいろトラブルがあるわけだし。

今朝、先方から誤解してごめんなさいと、丁寧な謝罪のメールがきてました。 
正直ほっとした。良い勉強になりました。
画像はご近所のあじさい。今年はとっても色が良い。

後 6ヶ月と2日。186日だ

追う,追われる 2003,6,27
たしかに、オーバーフローしていたなあ。と今思う。

人には二種類あって、自分の許容範囲に気がつかずに、許容範囲を超えて不都合があってから気がつく人と、最初から自分の許容範囲内でコントロールしてやっていける人がいるような気がする。

 私は多分前者。そういえば一昨年肺炎になったときも、只のひどい風邪だとおもっていて、夜中中苦しくて眠れなくて居間に布団を持って出たままうつうつと朝を待ったのはよいが、朝の光がまぶしすぎて辛い状態。医者で待たされたのは多分数分だったが、その間座っていることさえ辛くてソファーに横になりたくてなりたくて。 隣の人の声を押さえたヒソヒソ話しがみみについて辛くて。(コリャアカンのではないだろうか とさすがの私も思っていたのだが。)そんな状態でも次の日は会社に行こうと思っていたのだった。
 前日の帰宅時、乗り換え2分を走って「息切れして走れないの」なんて笑い話にpon1に喋っていたマヌケである。 医者に「3週間休むように」といわれた私は「明日会社に行こうと思っていたんですけど」とそれでもまだ行く気を見せて医者に「死にますよ」(半分脅しだったとおもうけど)なんて言われたのだった。(後からわかったのだがこじらせてから1週間くらい私は風邪だと思って市販の薬を飲んでいたわけであった。)

 許容範囲を超えるまで気づかない人は大抵大事になってから初めてハッとするわけで、少し前流行った「危機管理」ができてないのではないか。許容範囲内に収めるように本来はコントロールしたいものである。

 私のように、許容範囲の把握が出来ない人間は、一つ一つは小さなことであるということに惑わされて、それが一つか二つ片付いたら(もしくは自分がちょっと頑張ったら)うまく行きそうに思うのだ。でも、実際はその小さな積み重なりが「ちりもつもれば山となる」なっているようだ。

 とにかく、ここらで1回立ち止まってみよう。そうして逃げていたことができるようにしてみようというのが、今の心境だ。

■逃げる

そう。逃げていたのかもしれない。
できそうもないこと、やりたくないことを言いつけられると大抵 他のことがしたくなる。結局最後は自分がやらなければいけないことであっても つい。
オーバーフローし始めてから、オーバーフローの原因には対処せず、関係ないことばかりやってしまう。逃げだったなあと思う。(モトから断たなきゃダメなのにね)

 逃げる立場と追う立場 同じ物をやるにしても 逃げる立場(やらされる立場)と 追う立場(やる立場)では随分と意識の差がありそうだ。逃げる立場と追う立場を比べると、追う立場のほうが数段楽ではないか?。
逃げる立場は自分が辞めたくても逃げることを辞められない。追う方は 自分が辛くなったら追いかけるのをいつでも自分の判断で辞めることができる。
 たとえば。家事に喜びが見出せないのは、大抵「やらないといけない」という 逃げの立場の仕事という側面も関係しているように思う。これを「追い」の立場へ転換することで家事を楽しくやることができるかもしれない。

 そういえば、産休の始めのころ。毎日のように「今日はココ」「今日はココ」とやる場所を決めて綺麗にしていくことが楽しくてたまらなかった時期がある。それは「追う立場」だったからではないだろうか。それをもしpon1に「キミは、産休で昼間は暇だろう。今日は納戸を全部片付けたまえ」なんて言われた日には、これが逃げる立場になりかねない。

※ワンポイントレッスン?(追う立場でありながら相手にそれを気取られない方法)
 「時間があったら、納戸を片付けておいて貰えると嬉しいな。でも明日でもいいよ。」である。
 私などは、この手のトリックに弱くて、「そうか。嬉しいんだ。んじゃ 一肌ぬぐかね。」とすぐに木にのぼってしまう。私の意思決定が入ったように見せかけられることで 私は「追う立場」になる(というより錯覚している?)のだ。

※ワンポイントレッスン?(一見上とおなじように見えて相手を追っている場合)
 「時間があったら、納戸をかたづけておいて貰えるとうれしいな。でも明日でもいいよ。」と同じように相手が言ったとしても、それが経験上口先だけだと分かっている場合、たとえば、「今日は忙しかったから 明日することにしたわ」という返事をすると「なんだとぉ〜」┗(`o´)となる場合が明白な場合や、「時間があったら1000万円もってきて貰えると嬉しいですね。持ってこないと人質の命はありませんよ。」という場合。<なんじゃこの例は??
 これは 相手に「選択の余地」を与えるように見えて実は与えてないケースである。
  
■追う追われる

ライオンなどが狩をする場合の「追う」立場は 「生き残れるかどうか」というある意味生存競争に勝ち残るためのシビアなものであるから 今私が言っている「追う」立場とは違うかもしれない。彼等は彼等で 「飢え死に」から逃げるために 「動作」として「追う」必要があるんだから。
 ただ、ライオンが「何のために」なんて考えて 獲物を追いかけているわけではないだろうからちょっと話しは違うかな。 

 いや〜。女の子に追われるのは良い気分だよ。とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれないが、それはそれで「本来は逃げなくても良い逃げ」だから本人に余裕があるのだと思う。
 「危険な情事」の主人公のような立場だったら、そりゃもう 追われる相手が女であろうとなんであろうと大変であることは明白なように思う(^^;) ですよね。。たぶん。


■逃げの立場から追う立場へ

いままでは、○月○日には何を「しなくちゃいけない」 という大きな逃げの意識でやっていたから 頭としても嫌いなことやりたくないことは 忘れてしまおうとする<頭も逃げている。
 それでホントに忘れて ミスの連発だったのかもしれない。

自己管理としては、とにかく追われていたもの(逃げ切れない物だからからこそプレッシャーになる)をきちんと把握して、自分から取り組むように計画をたてて 立場を「追うもの」に転換しようと思う。
 なんて言いながら、まずは、やらなければいけないものをきちんと把握して、自分なりの重み付けと時期を考慮して計画を立てることからだな。
結末はまるで 夏休みの宿題が出来ない小学生への小言のように 「ふつ〜」のことだというのがわれながら情けない。
画像は今日も続いてコウキエン

後 6ヶ月と3日。187日だ

山登り 2003,6,26
私は学生時代、「自然歩道」となっているところを歩いて山の頂上を目指すという軽登山の真似ごとをしたことがある。

 私の入っていたクラブは私の一年先輩が初めての女性部員だったので女性部員先輩3名私達の年齢2名の5名が女性。後が男性という構成だった。
通常、「そうなると、女性がちやほやされるのではないか?」と思われそうだがそうではなかった。
確執があったようで、私たちが入部したときは「女性部員は要らない」とか「女性部員はトレーニングしない」とか「自分達だけでは合宿に行けないくせに」等言われていた。私たち新入女子部員は男性部員と女性部員双方の中間に位置しているような状態だった。

 その彼女達が「私達だけでも合宿をします」と宣言して、「pon2さんも参加するわよね」となったのがその自然歩道の軽登山合宿であった。

地図は先輩が持ち私達は後をついていく。ところが、沢を越えたあたりからなんだか怪しい道になった。雑草が背高くはびこっており、先に進めない。坂も急である。右手の下方にいかにも「自然歩道」らしい道が見えている。「先輩。この道まちがってませんか?」と口に出した頃は もう上り始めてから2時間もたったあとで、夕暮れが近かった。
先輩は「あそこに見えるのが頂上だから、頂上に上がったらよく見える」といって一旦上を目指そうとしたのだが、思ったように進めず、少し上ったところで皆で相談して降りることになった。反対した人もいた。
「いままで2時間かかっている。降りるのに2時間かけたらキャンプ地につくのが遅くなりすぎる」という主張だった。

 しかし、どういう話しの展開だったか 降りることに決まった。
降りると決めてからは早かった。道を間違った地点まで 30分かからずに到達した。

※危ないところだった。あとから知ったのだが、けもの道に入り込んで頂上をめざして遭難というのはよくあるパターンらしい

■頂上をめざす

一旦あそこまでと思うと、その目標を変えることというのは抵抗があると思う。いままで積み重ねてきたものがあればあるほど、それが捨てがたくて、執着したくなる。
 でも、目標というものは、その状況にあわせて必要があれば変えていくべきものだと思う。
あのとき、私達が当初の目標どおり頂上をめざしていたら、もしかしたら本当に遭難していたかもしれない。
 それに、頂上を目指すというのは、最終目標ではなく、より上位の目標を達成するために自分が作った目標なのだ。それをあきらめても、上位の目標が達成できれば良いではないか。

 具体的に言うと、先輩達の目標は「自分達だけでも合宿できるところを男性部員に証明したい」だったのだ。そうして、それを達成するためにたてた計画の目標は 「夜までにキャンプ地に到着する。」だった。しかし、途中一生懸命になったがあまり、「あの頂上に到達する」という中間目標を自分でたてた。 それがクリアできなくても、 「夜までにキャンプ地に到着」して、「合宿ができることを証明する」ことで 充分目標は達成できるのである。

■やりたいことは何?

モノを分析する手法に 問題点を書いてそれの原因などを掘り下げて線で結んで図にする手法がある。下のページの内容は読んでないけど図としてはこんな感じ。いろいろバリエーションがある。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/making6.html
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jlectures/LecOGUSIM0202/SIM8Causes.html
基本的には ある具体的内容を1つ書いて○で囲み 因果関係を考えて矢印で結ぶという雰囲気だ。

 たとえばワークショップなどでこの作業をしていると必ず、一人や二人は 原因と結果がごっちゃになってしまって皆を混乱させる人が出てくる。
 良い例がみつからないが 景気が悪いから購買意欲がない のか 購買意欲が湧かないから景気が悪いのか。など 今、この話自体は「何を解決するためにやっているのか」ということを見失ってその一つ一つの要素に集中してしまうからそうなりがちなのではないかと思う。

 たとえば、エラー対応に時間がとられて本業に集中できないからエラーが多いのか。エラーが多いからエラー対応に時間がかかっているのか。とか。

会社でもよくあるのが、どっちが目的でどっちが結果かわからなくなっている部門だ。
たとえば、何かを解決するために依頼書をつくり、その依頼書の集計をするという業務を作ったとする。当初はそれには目的があったのだが、そのうちにその依頼書の集計に 「自分はコレがついていると便利だと思う」という目的以外のものが個人の裁量で増えていくのである。そうして、目的以外の部分は実はさほどつかわれていないのに、膨れ上がってくる。そうして作っている人はいつのまにか資料を作ることが目標にすりかわる。

 分析時に「この資料は何のためにあるのですか?」と聞くと時間の大半をそれの作成に使っているのに「あまり意味がない」ものだったりすることもあるのだ。

 この資料は何のためにあるのか。誰がつかうのか。どのくらい利用されているのか。そういうことがなかなか意識されていない場合も多い。

■ペース
ちゃんとした山登りをしたことはないのだが、山登りの本を読むとペースというのがある。
同じ坂道でも 人それぞれのペースがあり、それをあわせることや無理させない=無駄な労力を使わせないことが大切だ。
 自分に最適のペースが他人にピッタリとはかぎらない。その辺には山登りのノウハウがありそうだ。通常は 遅い方にあわせるのだろうか。PON1にきいてみよう。

 こうやって考えてみると仕事も山登りと似ている。
目標とスケジュールをきちんと把握して共有する。その場その場の状況分析とその対応をもりこみながら、皆のペース配分に気を配り進むこと。
 自分ひとりが先に進みたくてもそれでは 皆がへばってしまう。

昨日、知り合いから 「教育係に立候補してティーチングしようとしたら モチベーションが低くて」というメールをみて思ったのであった。目的意識を共有して、ペース配分に気を配ってというのはリーダーシップでよく言われることだ。物事を考えてやる人が相手であればあるほど、それの目的と内容をキチンとわからせる必要があると思う。
やる気のない人に「やる気を出せ」と言ってもそうそう出ては来ない。彼の思うように後輩がついてこない原因は何だろうと ふと思った。
画像は続いて紅輝炎
 
後 6ヶ月と4日。188日だ

記憶 2003,6,25
■ロボット

大王との間で「ロボットごっこ」(スイッチごっこ?)のようなもの(実際は遊びの名前はついていない)が流行っている。勝手にココと決めた相手のスイッチを「ぷしゅ」と押すと押された相手は何かの反応をするのだ。
 頭でも手でもおなかでもどこでも良い。その反応が毎回違えば違って面白いし、同じなら同じで違う反応をさせようと必死に押しまくる。
 反応も「白目」や「ベロ出し」のような地味な技から「くすぐり」のような子供が喜びそうな強烈技までいろいろある。このへんは動作のバリエーションということで大人も頭を使うところである。(本当に使うか?(^^;))

子供は粘り強いので、騒ぎたいときは こちらがもう反応をやめたくても夜遅くてもいつまでも「ロボット」から開放してくれない。そこで、ロボットは壊れることになる。
 大王が どこを押しても、「壊れた」といって白目をむいたり目をつぶったりして口をあけ手足をだら〜んとさせてにげる。

 この壊れ技を大王はすぐに習得してしまった。
自分がやりたくないこと(たとえば お風呂に入るなど)のときには 「壊れた」といって壊れ技を披露するので、こちらもどうにかしてお風呂に入れたいから知恵をしぼることになる。

「あ〜ら〜ら〜。壊れちゃった。お父さん!壊れちゃったよ。コレ。不良品だったかも。まだ保証書あるよね。明日ヤマダ電機に電話してくれる? 交換しよう。」なんて言いながら、プランプランに力の抜けた手を持って、芝居がかったことをしたのである。

「ヤマダ電機で買ってきたの?」ときくから調子にのって真顔で「そうだよ。知らなかった?」と聞くと しゅんとしている。 やば〜い。本気にしたかな。
 大人からすると 絶対ありえないことでも子供にしては本当になるのだ。なんせ世の中すべてが未知だもの。「嘘だよ。売っているわけないじゃん。」とすぐに訂正して元気が戻った。
 危うくトラウマにするところだったかもしれない。

■産まれた記憶

 妊婦の頃に読んだ雑誌には「産まれた子供にはおなかの中の記憶がある」と体験談がのっていた。しゃべりはじめた自分の子供が「○ちゃんはね うんしょうんしょと真っ暗のところからでてきたら ぱーっとあかるくなったの」なんて言うと何人もの親が証言しているのだ。

 私は「どうだろう?そんなことあるのかな。だいたい神経もそこまで発達してないよね」なんて疑っていた。事実、覚えることのほうが先で、後から喋るので、喋り始めの頃は、「おお。そんなことまで聞いて分かっていたのか」と驚くことはある。
 そんな風に理解はしていても言葉として表現できないという時代がたしかにあるにはあるが、産まれたときにそこまで理解しているかどうかは私は半信半疑。 親がそう思いたいだけか、もしくは 「喋れない」ときに親が「理解できていない」と思ってその話しをしたことを忘れていたのではないかと思った。

 確かめたいがあまり、大王が喋れないときもそういう話題はしなかった。はなせるようになってから聞いてみたらやっぱりぜんぜん覚えてないようだ。私はたいそう納得したのだった。
(私一人の実験だし、これも信憑性がない。調べてみたら 大体半数の子供が胎内記憶があるとか。そうして、3,4歳でその記憶は消えるとか。その中に何人かは聞きかじった話しを話しているかもしれないし、本当に記憶があるのかもしれないし。<あくまでも疑っている姿勢の頑ななpon2(^^;) 記憶があったからといって偉いわけでもなんでもないが、おなかの中にいるころから子供を子供として認識して母親が大切に過ごすことは良いことだと思う。)

■ブレードランナー

 「たしかにこの人の子として生まれた」という記憶は子供にはない。(経験上ないと思う)
私も物心ついた頃に、父母がいてほかの大人とは違う存在だったから認識したということで今ではDNAなどで科学的に親子関係が立証できるが、記憶ではそういう確証を持った人は一人もいないのではないかと思う。 世の中に知らないことだらけの大王からすると、「ヤマダ電機で買ってきた」ということを今のこの時期信じさせるのは簡単かもしれない。

 ふと、映画のブレードランナーを思い出した。大幅なネタバレであるが。

危険な場所での作業などを担当させるために、人造人間(レプリカント)を利用していた。未来の話である。レプリカントたちは、人間そっくり。見分けるには技術を要する。
 人間であれば神経をさかなでされるであろうような 言葉に対しての虹彩反応で見分ける。そうして彼等の寿命は短い。
 数年生きていることで、レプリカントたちにも感情が芽生えてくる。そうして、自分の過去の記憶がないために情緒不安定となってしまう場合もある。

 レイチェルはレプリカント。そうして、彼女も情緒不安定となり、他人の幼少の頃の記憶や写真を与えられて落ち着いた。それを自分の記憶=人間であるという証だと思っている。

 話しができるようになった大王に、赤ん坊の頃の写真をみせたり、思い出話を沢山して彼の記憶を作っているのは私たちかもしれない。大王にとっては混沌とした状態に話しを聞くことで、産まれてからの欠落した記憶を補完しているのかもしれない。
 ふと思ったのだが、人の表現の機微を理解できないこの年代への昔語りは少し気をつける必要があるかもしれないと思った。今ではあまりないかもしれないが 「うちの宿六」のように自分の気持ちとはうらはらに憎まれ口をきく(ある意味へりくだりにつながる場合も)というような習慣が日本にはあった。
 可愛いとおもいながらもその気持ちを素直に言い表さないことで、子供は「額面どおり」に受け止めてしまうかもしれないな。それこそトラウマになりかねない。
気をつけよう。と改めて思ったのであった。
後 6ヶ月と5日。189日だ
コウキエンの花

R.P.G 2003,6,24
今では良く知られた単語である。R.P.G(ロールプレイングゲーム)。有名な「ファイナルファンタジー」や一世を風靡した「ドラクエ(ドラゴンクエスト)」などが日本では有名である。
 ゲームソフトの種類はほかにも、シューティングゲーム(古くはインベーダーゲームやグラディウス?だっけ?などの敏捷に動いて敵の弾を避けながら相手を撃つゲーム)。
 やレーシングゲーム、シミュレーションや格闘系もある。

R.P.Gは大抵は敏捷性を競うことなく(中には敏捷性が必要なものもあるが)自分が物語の主人公となり、相手と会話することで情報を聞き出して謎を解きマップを歩き回ってエンディングまでたどりつくゲームである。必要な相手を見つけられなかったり、条件がそろわないと話しを終えることができない。

私は子供が生まれるまでは テレビゲーム大好き人間で、独身のころはあまりにゲームに熱中しすぎて夜明けまでゲームをしていたこともあるし、次の展開が見たくて途中でやめるにやめられなくて半分眠りながらゲームを続けていたらどうやってここに来たか分からない街にやってきたりということもあった。懐かしいなあ。
 シューティング系のゲームは点数がとれず 諦めることも多いが、特に好きだったのはR.P.G。時間を忘れて遊んでいた。

そうはみえないかもしれないけど、これでも ヘリテイジなんです。

子供が生まれる頃になってから猛烈な眠気と倦怠感、集中力の低下(妊婦にありがちな)に襲われてゲームをしなくなり、それでも「あとからやろう」とおもって気になるゲームを購入したきり、ゲームどころではなくなって、我が家には一度も封をきってないゲームがそのまま古くなっている。

■子育てはR.P.G

ふと気づいてみると、結婚すると決まってから毎日がR.P.Gのようだ。
はじまりは結婚式。○月○日までにどこに行って何をしてきてください。とか山ほどスケジュールが言い渡されて、それを全部クリアーしないといけないのである。
 結婚式を挙げた後「絶対にやらなければいけないこと」を優先していて力尽きて入籍は随分先になってしまった。入籍するにしても コレとコレとを集めて という条件つきだったので、本籍地が遠くにある私たちはとても面倒だったのである。入籍完了したのは 式の1ヶ月後だった。それも夜間に散歩がてらに出しにいった。(婚姻届は夜間でも守衛さんが預かってくれるのだ)

 それでも、子供が生まれる前は今よりも自分達の好きになる時間も多かった。二人でR.P.G.で夜中遊ぶことも多かったし、二人でお酒を飲みに行ってべろべろで帰宅するということもあった。
美味しいご飯も食べに行ったり、映画を見に行ったり。
 昼間一緒にいても、個々のやりたいことに熱中して別の部屋で過ごすこともあったし、思いついたときにお茶を一緒に飲んだりという大人の時間だった。

 子供が生まれてからというもの、そういう時間はまったくなくなってしまった。その代わり「絶対にやらなければいけないこと」が増えてきた。たとえば、朝ご飯を炊いて弁当を持たせる。
○月○日までに、この書類を保育園に提出する。 この日は保育園で集りがある。この日は野菜を持たせる必要がある。プール開き以降は基本的に毎日水着を持たせる<つまり毎日水着を洗濯して乾燥させる。 保育園のシーツは毎週とりかえる。etc.そういうことに加えて、ほかの用事もわりこんで○月○日までに。。となってくる。一つ一つは小さなことなのだが、全部一緒にすると結構大変。
 
他人からしなければいけないことを期限付きで言い渡されることがとにかく多いのだ。

ゲームのR.P.Gは、自分が飽きたら、セーブして、「また明日ね。また今度。」と好きなところで終われるのに、現実の生活は 後のばしにできない。大王は可愛いし、大王と一緒の生活は楽しいし、新しい喜びがある。でも、失うものも多い。
今は自由な自分の好きなことを好きなだけしていた生活が懐かしい。
 たまには、子育てから開放されたいと思うのであった。

特にpon家の場合は、おばあちゃんが近くにいないことも 一杯一杯になってしまう原因のひとつかもしれない。
 近所におばあちゃんが住んでいる家の人は、保育園の送迎をたまにおばあちゃんにたのんだり、子供を預かってもらって自分達の息抜きの時間を持つようである。

 ところが、我が家の場合、私がサボるということは、とりもなおさずpon1の分担が増えるということだ。家事は見直して機械にやらせることができるところは最大限機械にお願いしている。だから、私の分担は「人でしかできない部分」つまり、pon1が私の分もやることが必要になるのだ。それを考えると申し訳なくて気持ちはぜんぜん楽ではないのである「ドビーは悪い子状態?」。。

最近は、外から言い渡される「やらなければいけないこと」をやるのに精一杯で、家庭で決めた「やること」にしわ寄せがきている。たとえば、以前はマメに整理していたクレジットカードの点数もここ2年くらいはみすみす交換せずに終わっている。もっと言えば、毎週の宅配野菜の注文でさえままならないのが我が家の実体だ。

■やっぱり大変な子育て

大王がまったく手がかからなくなったらそれはそれで大層寂しいだろうとおもうけれども、やはり子育ては大変だ。子供が大きい友人に「いつになったら楽になるのかな」という話しをした時、「今の大変さはすぐに終わるよ。でも、子供が大きくなれば大きくなったで別の大変さにかわるよ。」と言われた。

 たしかに、生まれたての 夜も昼もない頃のように 夜中3時間おきに起きてミルクをやるという手間はなくなった。でも、今は 大王が起きているかぎりは、相手になるように誘われる。
会社から帰って最低限やらねばならないことを終えたら、後は「自分の時間」はほとんどなくて、「大王の時間」なのだった。

ちょっと愚痴。くたびれてきてしまっている。
でも、会社を辞めることにしたので、これで何かが変わるだろうと、希望を持とう。
まだ、上司には相談していないけど、私の予定としては、後 6ヶ月と6日。190日だ!
(今日からカウントダウン開始しま〜す)
そうはみえないかもしれないけど ヘリテイジなんです。昨年はヘリテイジらしい花だったんだけど、そのままな〜んもしなかったらこんなに。。

三つ子の魂 2003,6,23
「三つ子の魂百まで:幼いときの性質は老年まで変わらないこと(広辞苑)」なのであるが、これはよく保育園に3歳以前に子供を通わせる親を悩ます言葉である。子を保育園に通わせるつもりがない人が 保育園に通わせる人に向かって、「三つ子の魂百までっていうのに、かわいそうに。」と使うことが多い。(ここで、母親は勤めを辞めるべきだろうかと悩むことになる)

 大王は0歳から保育園へ通い、現在5歳。上の主張が正しければ、大変なことになっているはずである。が、親の欲目も多少あるだろうが、大王を含めて保育園育ちの子供達は性格の差はあるけれども、皆良識のある良い子達に育っている。自分の頭で考え、相手のことを思いやる気持ちを持ち、我慢もできる。そうして、皆子供らしく生き生きしている。
 反対に、保育園の外で出会う子供に驚くことも多い。小学生くらいになっても順番を待てずに割り込み、叱られるとそこいらに乱暴をふるったり大声を出してあばれたりという子供もよく見かける。
 そういう子供の親を見ていると、大抵「無関心」であることに気がつく。子供に集団生活の規律を教えられるのは、基本的に親だと思うのだが、「良い、悪い」の尺度も子供に伝えずに 「ならずもの」状態の自分の子供を諭すどころか、自分の子供ではないといわんばかりに 他人のような振る舞いをする姿も多くみかける。

 保育園に子供さんを預けることに悩む方がここを読まれたら、私は心配は要らないと言いたい。
しかし、子供を託す保育園の選択は慎重に。「英語」や「ひらがな」という教育カリキュラムよりも、子供を本当にこの人たちに託すことができるかという観点で選んで欲しいと思う。

 また、園にまかせっきりにせず、じぶんなりの子供に対するアプローチも必要だと思う。
「おかあさんはそれは良くないとおもうよ。」と自分の尺度への軌道修正はやはり必要だと思う。

■ところで三つ子の魂

話したい内容よりも少し横道にそれた。三つ子の魂である。
自己観察すると、私は「ぼや〜」としていながら「きりっ」としている人間だ。
つまり、できること、こだわることは人並以上に集中できるのであるが、その代わり人並み以下にしか出来ないことも多い。
 
たとえば、こみいった話しがあったとしても、考える対象として認識すれば、きちんと理解・検討し、かなりよい結果を出すことができると自負している。(自己評価が高すぎ?)
ところが、普通の人が難なくできることができなかったりする。
自分の中での着目度が低い場合など、打合せを忘れるというようなことも私としては良くあることなのだ。つくづく、人の命にかかわるような職業には就けないと思う。

 昨日は、この失敗について、「ああ、またやってしまった。」という思いを反芻していてふと思い出した。
そう。あの時もそうだった。
私の家族では笑い話になっている出来事で、友人にも話したことがある。

小学校6年生の頃だ。「頼りになる。しっかりしている。」といわれることを誇らしく「自分はそういう人間なんだ」と思っていた。6年生の4月。子供会の会長になった。会長に選出してもらえたことを誇りに嬉しく思った。しっかりしなければと思った。

 会が終わり、下校をすることになった。一年生はあまりにもちいさくておぼつかなかった。
会長となったばかりの私はその子たちが きちんと並んで帰れるようにと気を配った。
 帰宅途中その中の一年生が私に向かって「おねえちゃんのかばんは?」と尋ねた。
私は、帰宅させることに意識が向いてしまったあまりに、自分の鞄を学校に忘れてきてしまったのだった。そのままごまかして帰れるだけの機転が利けばよかったのだが、慌てた私はすぐに学校までとりに帰った。 帰宅してから 子供会中にそれが広まっているかもしれないから、もう学校へ行けないと真剣に悩んで、母に打ち明け泣いたのであった。

 中学二年生の懇談会が終わってから、帰宅した母に叱られたことがある。いや本当は叱ってないのかもしれないが、すごくショックだったことがある。
 いままで、懇談で担任に悪い面を指摘されたことは皆無だったのに、その時の担任に「pon2さんは時々ポカッと抜けることがある」と言われたそうだ。今思うと、この担任は観察力があったようだ。それまで誰にも指摘されることがなかった特性に気づいたわけだから。

 その頃 自分で抜けていることに自覚がなかった私は、大きなショックを受けた。

そう。三つ子の魂百までである。この性格は たぶん百までなおらない持って産まれた性格なのだと思う。

■ボケとツッコミ

ある意味、私の性格は一人ボケと突っ込みのようだ。 私の突っ込みの部分しか見ていない人は、怖いと思う人も多いかもしれない。仕事や、ネットではかなり怖い融通の利かない人間ととらえている人もたまにいるように思う。日常生活では「ボケ」ととらえられることが多い。ボーッとしているので、何もできない人間で、物を知らない人と思われていることも多く、助かることも多いのだが、それによって馬鹿にされたりすると帰宅してから憤慨することもたまにある。(すぐに憤慨できず、帰宅したころにじわっと憤慨するところが ボケたる所以である)

 このボケとツッコミの度合いの開きがかなりあるほうだと思うのだが、pon1は「あるものをあるがごとく」受け止めてくれているのが私にとっては得がたい伴侶だなあと日々感謝しているところだ。

 なんていっても、昨日すっぽかした打合せの言い訳に「これは私の三つ子の魂なんです」なんて言っても通らないのはよ〜くわかって反省しています。。

画像は白万重。かなりひらいてきました。

信じられない。信じたくない。こと 2003,6,22
大失敗したときに、pon1に「信じられない」って言われると、大抵私は「信じなくていいよぉ」なんてごまかそうとするのですが、昨日は自分で信じられなくて信じたくないことをしてしまったことに、今朝 朝食をたべていて気づきました。

 このボケかげんがまぎれもなく私なんですが。

昔からひとつのことをしようと思うとほかのことがお留守になってしまうという欠点を持っています。で、それはある意味「しようと思うことに集中する」という長所にもつながっているのですが、結局は 「やらなければいけないことができないヤツ」なんです。

昨日は保育園で集まりがあった(と思う)のに、すっかり忘れていました。
しかも、自分で21日と聞いてほかの人に知らせたのに。

信じたくないです。こっちはさぼりではなかったのですが、たぶんさぼりだと思ったろうなあみんな。

画像は近所の菖蒲です。

2月だけ? 2003,6,21
マメなpon1のおかげで、なくした日記の過去ログをどうにかupしました。
ところが、ここにも問題が。

pon1はマックなのです。マックで保存するとhtmlの後ろにマック特有の形式で画像を一緒に保存するようで、その画像がひとつひとつ分けられない。
 ファイルをドラッグして新たなファイルを起こしても画像として認識してくれません。 ということで、5月までの日記は画像なしになってしまいました。

そうして、新たなことが発覚。

私は私で、まったくバックアップなるものをとってなく、気まぐれで2月だけ保存していたのでした。(なぜに2月だけ? 自分のことながら謎)
とりあえず、文章だけでも残せたのは pon1の存在があってこそ(深い感謝と反省:この反省がね。一瞬しか続かないんだよね)

画像は、もしつけることができれば少しずつ修復したいと思いますが、期待薄です。
上にある過去ログリンクから行けます。

■ところでユニクロ

浴衣出したんですね。帯ついて3900円なんて。安い!
椿縞。色が今ひとつですが気になるなあ。もう少し若ければウサギとか金魚なんかもかわいいですね。柄については実物見てないのでよくわからないけど 安さが魅力です。
 画像は ゼラニウム アップルブロッサム

さぼりぃ 2003,6,20
さぼっちまいました。えへへ。
今日は、創立記念日で、もともとお昼までしか勤務時間がないのですが、午後から2時半まで拘束時間があるのです。
で、今年は式典に必ず参加なんていわれて。「え”〜」とぶーぶーだったわけです。
只でさえ田舎で電車がないので、以前の職場からだったら 3時には帰宅できるのに、今の場所に行ったら 2時半に終わったとしても、はやくても4時半に帰宅。結局夕方なのに、だらだらと必要でもない話を聞かされて、延びるのかなあ。
なんでこの炎天下に外で集会させるかなあ。など、いろいろ思ったわけです。

でも、出勤はするつもりだったのですが、運わるく 今日は遅くなってしまった。
立川まで行ったのですが、着いてから仕事する時間も短そうなので、電話をして「今日は休んで良い?」と聞くと
今日は時間も短いですし、問題ないですよ。なんていわれたので、次の電車で帰ってきました。
おかげで天狗風全部よめちゃいました。うれしい。

まあ、さぼりといえばサボりです。

■ブランド時計メンテナンス事情 カルティエ

今日はいつもより早く帰ることができるはずだったので、やることがあったのでした。
それは 時計の電池と、時計バンドの交換と修理です。

日ごろブランド指向というのをメタクソ、けちょんけちょんに言っているわたしですが。白状しますと、時計はブランド物を使っています。(ああ、ごめんなさい。)これは言い訳ですが、時計は流行があります。時計を購入しても流行が変わるにつれて壊れてないのにつけられなくなるっていうのは、すごく不経済な気がするのです。
 この時計はたぶん10年選手ですが、別に今つかっていても古臭くない。そういう意味では経済的かな?とおもっています。たぶん、おばあちゃんになっても使うと思います。(まあ、ある意味ルイ・ヴィトンやエルメスの鞄もそうかもしれませんね。しかし鞄は耐久性も低いし汚れるのでやはりあの値段はどうも納得がいかない。<価値観はひとそれぞれですね)

もしかすると、時計は買ったけど、バンド交換はどうしよう?と思っていらっしゃる方の検索にひっかかるかな?と書いてみます。

ということで、時計バンド(丈夫でした。毎日使って 多分10年近く皮バンドがもつものはそうはないと思います)の交換をしに行きました。近くの二子玉川にあらかじめ電話をすると、もっていってみないと分からないとのコト。
 カルティエの タンクという時計です。 時計バンドは 18000円なり。 もしかしたら3万円くらいするかもと思っていたので、3万円だったら、市販の時計バンドにしようと決めていましたが、この価格はギリギリの線でした。
ところが、行って見ると私のバンドと同じ色がないそうで、クロコ皮の紺色と サテンの黒しかないとのこと。注文すると6ヶ月かかるとのことでしたので、まあ、いいか。と紺色にしました。(こげ茶の皮が気に入っていたのですが。)
立派な袋にいれてもらって終了です。

■ブランド時計メンテナンス事情 ロンジン

ロンジンはさほど高価なブランドではないのかもしれません。私は金属アレルギーがあるのでどうしても金の時計が欲しかったのです。それで、私にでも購入できる金額という基準で選んでこの時計を購入したのです。ドルチェ・ビータという時計です。これはベルトの留め金部分まで金でできているので、あっという間に留め金が甘くなってしまって困りました。そういう難点があるなんて購入するまで分からなかったのです。
 時計の電池もなくなってしまったので、これは デパートの このブランドを扱っている売り場で修理を頼むことにしました。ところが、これは金でできているのでやわらかいから、下手なことができないから 修理見積もりになるとのこと。(実はちょっと触った跡がついてました)その金額も不明だし、見積もりには3週間かかるとのことでした。 なかなか外出できない私はちょっと考えたのですが、たかだか10回に満たないくらい利用してすぐに甘くなるような留め金は、たぶん修理にだしてもすぐに甘くなると思えました。(たぶん金属の質が留め金にむいてないのです。)ということで、電池交換のみたのみました。 2500円なり。

■お買い物

普通の人には、いつでもできるショッピングですが、私はすごく久しぶり。こういう時間を以前に持ったのは1年以上前かもしれません。
 待ち時間にルーム・フレグランス購入。(siaというフランスのお店のもののようです)ラベンダーとワスレナグサのものが気に入ったので。そこでは本物そっくりのシルクフラワーが売られています。鉢植えの薔薇とか。それに香りをつけるというものもあり、ちょっとためしてみました。 ピオニーの香。ユリの香など珍しい香りがあってちょっとかいで見たら、ユリはどこかでかいだことがあるけどナンダッケ?ユリでないことだけはたしかだけど 懐かしい香り。 ピオニーは良い香りでした。 靴や洋服鞄はいまのところ欲しいものが見つからず。
 でも久々の大人の売り場をみてまわることができました。
あとは、シンゴナンサス ミカド という花を購入。手のひらサイズで、日の丸を立てる金色の玉がついたポールみたいな花です。それからお気に入りのお店でサンドイッチをたべて ストレス解消してきました。でも心のどこかで大王のこと考えて落ち着かない。まだまだ子離れできてないな。

■今日読み終わった本 天狗風

ここから後は、ざっつ園丁とほぼ同じ文章です。
 天狗風 霊験お初捕物控の第二弾。
1巻目のお初よりもスケールがアップして、お初も活発に活躍する。
 下駄屋の娘が神隠しにあう。それも、父親の目の前で。お初は、南町奉行所の奉行に依頼され、この出来事をしらべてみることになった。奉行は、不思議な出来事に前から興味をもっているのだ。

まるで犬夜叉。一つ前に読んだのが「堪忍箱」だったので、とつぜんあやかしが始まったときには かなり驚いた。そうだった。そういう話だった。

しかし、あっという間にひきこまれて一気に読んでしまった。次のページをめくるのが待ち遠しい本だ。

 今回は相手も一筋縄では行かない大妖怪のようだ。
大活躍する鉄という名のネコもかわいらしい。ネコ好きの方。動物好きの方にオススメです。

お気に入りの一冊になった。

ってことで、私としては有意義な一日だったんだけど。日記としてはつまらなかったかも。ごめんなさい。

いい塩梅 2003,6,19
入梅ときくと毎年、「いい塩梅」と頭の中でイモヅル式に出てくる。
そのうちに「おばあちゃんは、毎年そうなんだから!」なんて言われる日がくるのだろうか。

■実行委員

保育園では、ほぼ保護者の全員が何らかの実行委員になっているのだが、私の担当の催し物ももうそろそろ出し物などを決定しなければいけない時期になってきた。
 今年は最年長のクラスの委員で、前年からの居残りなので、「実行委員長を選出してください」という連絡が私宛に来たのである。

 保育園と幼稚園の差というのは、皆さんがご存知のように、幼稚園が小学校入学前の練習のような「教育」を主眼にした場であるというのに対して、保育園は 親が何らかの理由で時間的な制約を受け、その間子供の面倒が見られないから預けるという場所であることだ。
 その「何らかの理由」とは「はたらいているから」とか「病気だから」とかそういう理由である。
つまり、「保育園に子供を通わせている親には共通して時間がない」のである。

 そういう親達にあつまってもらって、何かを決めるというのは大変難しいことになる。土日出勤の人もいるだろうし、我が家も含めて平日にやれないことが土日も目白押しなのだ。

 長々と理由を書いたが、つまり「集まりが悪くて当然」なのであった。

■綿密な計画の穴

 そういう理由で、なにもないところから計画をたてたり人の役割分担や段取りを考えるのは嫌いでない私は、次回の打合せでの議事内容のまとめと、それに必要な情報や現状で考えられる段取りなどの下準備を進めていた。
 段取り図や、業務分担、討議のための情報のまとめと綺麗にできてきたので、「打合せは無事早く終わるだろうなあ」と資料を見ながら思っていたのだが、ふと、この計画の穴に気がついた。

 昨年も私は同じ実行委員をやった。その時はひどかった。
実行委員長をやろうという人がいなかったので、ジャンケンで決定したということだったが、委員長がほとんどなにもしなかった。最初の打合せに1時間も遅れてきて、「あれ、打合せは10時半からじゃなかったでしたっけ」と聞いたときに嫌な予感がした。
 結局は書記担当の人が一人で切り盛りする形となったが、体系立った連絡はなにもなく、保護者一人一人が気を利かせて いい塩梅に「あれは、これは」と穴を埋めるような状況だったのだ。

 今年、私は自分の作った資料を見ながらふと思った。
もしかして、これを渡してしまって、完全に役割分担したらどうなるんだろう。抜けがあったときや、不意の出来事の穴はふさがるだろうか。

 会社でもそうだが、「なあなあ」でやるとたしかに「なあなあ」の結果しか出ない。しかし、ピシッと見た目に完璧な計画を立てて 「あなたの役割はコレ。仕事はコレとコレ」と分けて 人の裁量をうばってしまったら、新たに業務が発生したとしても「私の仕事じゃないも〜ん」となることも多いように思う。忘れてはならないのだが、この催し物自体が急場ごしらえのメンバーで集りもわるく、すでにあちこち抜け穴がある前提でやる催し物なのだ。

このへんが仕事にも通じているよなあ。なんて妙に納得してしまったのであった。

■訂正

昨日の霊験お七 というのは正しくは 霊験お初でした。 7と8を間違えちゃった<違
昨日の日記も訂正しておきました。

日記の顛末 2003,6,18
怒涛の一日だった。まだ、1月から5月分の日記と、画像ファイルの件は片付いていないが、とりあえずバックアップがあったから おいおい修復しようと思う。

 このロバミミが突如なくなってしまったのであった。

■消そうとしたのはほかの日記
コンテンツをつくりすぎた私のページには「忘れ去られた」ようなページがいくつか存在する。その中で昨年1月くらいからずっと更新していなかった「かわうその手仕事」というページが気になったのだった。これはロバミミと同じ時期に cgiboyさんからレンタルして使っていたのだが、日記という形式なので、「何月何日以来まったく更新がない」という状態は、いらした方も中途半端な感じがするだろうし、私自身もそこの更新をしていないことが 時々気にかかったりしていたので、「精神衛生上このページはよろしくない」と思ってレンタルをやめようと思ったのだ。とりあえず、代わりのページを作ったので、そちらの動作を確認してからレンタルを終了しようと思った。
 ちょくちょく作っているものもあるのだが、写真をとって、加工してupしてという作業がなかなか続かなかったのだ。

 私はcgiboyさんからは4つの日記をレンタルしていた。後の2つは携帯サイトで使っていたのだが、携帯から見たときに広告が気になるので 別のスクリプトへ先日変更してレンタルしていた日記を削除した。 その時は1件1件問題なく綺麗に消えたので何の疑いもなく削除を行ったのだった。

手順は以下
1)かわうその手仕事管理人ページから 「この日記を削除する」をクリック
2)削除画面が出るので、 useridとパスワードを入力
3)消しますよというメッセージを見て削除ボタンを押す

2)で入力したのが ロバミミのuseridとパスワードだったのだ。

これは、削除プログラムの仕様ではあるが、システムを作っている私からすると、この削除のオペレーションはいまひとつ望ましくないと思えてしまう。バグではないが、ユーザーの間違いを招きやすい。

まず、管理人ページからたどって「*この*日記を削除する」というリンクをたどってついたページで削除するのに 「*ほかの*日記のuseridパスワードを入力し、あっていたら消える」ということを普通の人は考えるだろうか。プロならばあまり望ましくない仕様だと思う。
勘違いの削除を防ぐには いくつか対応方法があると思う。

たとえば、
1)削除するurlとuseridパスワードを入れさせる。(全部がマッチしないと消さない)
2)消す前に 削除対象の日記を参照できるようにする。
などである。

まあ、消えてしまったものはしょうがないし、cgiboyさんはレスポンスも早いし、ダウンもあまりない状態の日記を只でレンタルしてくださっているのだし、結局は「私が間違った」のだから私が悪いのである。諦めることにした。

■なぜ、cgiboy

日記をhtmlでアップするということになると 多分時間がかかって私にはできない。その点cgiなどスクリプトで入力するとちょっとした時間の空きにupできるので便利だ。
 でも、cgiだと検索エンジンにひっかからないことが多いのだ。その点cgiboyさんはだいたい1ヶ月に1回くらい検索エンジンがひろってくれてそれからヒットしていらしてくださる方がある。
そういう点でこちらにしていたのである。

■ところでlycos

最近見かけた日記で lycosの日記もイイナア。と思っていた。日記才人というところと提携していて登録時にそのカテゴリを3つまで選択できる。私もlycosもつかってみようかと登録をしてみた。そうして、利用規約を読んでみてびっくり。lycosさんの規約の中にはlycosのページにあるものは著作者の承諾なしに lycosが放送・出版に利用できるという規約が含まれていた。何年前だったか、lycosではないが、ネット(たしかクチコミ掲示板のようなところ)で集めた情報を出版してそれに著作権を申し立てられた裁判があった。それへの対応だろうか。
 私のロバミミはへなちょこ日記なので出版なんてとんでもないことだが、その中の表現の一つくらいでも、もし「これは」と思う場所があったりして それがまぎれもなく「私の意見」であるにもかかわらず勝手に出版されたりしてはやっぱり嫌だ。
 そんなこんなで、結局lycosのサイトは削除することにした。

こんな顛末だったのである。

■おまけは本の話 堪忍箱

宮部みゆきの買い置きの本を次々に読んでいる。日本語だとドンドン読めて嬉しい。
これは時代物の短編集である。霊験お初シリーズとは違ってこれには あきらかな物の怪は出てこない。
 ただ、ゆっくりとした時間と、長屋などで暮らしている人たちそれぞれの心の動きが見事にかかれている。こういう本を読んでほろっとしたりじんわりとした気持ちになったりするのは、きっと私たちが似たような感覚を味わったことがあるからだろうか。

この人は本当に守備範囲が広い。さらっと平易に読めながらも いつのまにか すっと物語に引き込まれ「ああ、そうだったのか」と「これ」と言葉や形にできないものが残る。
 先日行った江戸東京博物館では 長屋の様子などの模型があった。読みながら一層はっきりと長屋の様子が頭に思い浮かんだ。

ヒラリー 2003,6,17
ヒラリーが自伝?を出したということ。空前の売れ行きというのをテレビで見た。
ヒラリー。女性問題で記憶のあるクリントン大統領(退陣は任期満了)の美人の奥さんだ。

あまり目立たない脇役の夫人が多い中、ヒラリー自身も有能な弁護士であり、現在は上院議員である。また、クリントンとヒラリーの若々しい姿は アメリカを良く知らない私でさえ、あのJ.F.ケネディと ジャクリーン婦人を思い出す。ビジュアル的に映える二人である。

 あの姿を見ると最近問題になった「マーサ・スチュワート」と重なる光り輝くオバサンのオーラが見えるようだ。女性問題で、なさけない姿を露呈してしまったクリントンを尻目に「そのとき少しも騒がず」という腹の据わった対応がその貫禄にハクをつけたような気さえする。大物である。

 ところで、私は彼女のそういう表向きの面だけに「あこがれて」興味を持っているのではない。
実は彼女の「したたかさ」に大変興味を持っているのである。

大統領夫人となるずっと前の学生時代の彼女の写真をご覧になった方は沢山いらっしゃるかもしれないが、彼女は まさに「典型的なガリ勉女学生」の姿をしていたのだ。カトちゃんがかけるような目の所在も明らかにならないような分厚いめがね。髪の色も今とは違った。
 その彼女がまるで、映画「地中海殺人事件」のヒロインのような変身をするわけである。
彼女のその劇的と言ってもおかしくない変身はなぜだったのか。彼女は物事をどのように考えているのか。その計算高そうなところも含めて興味しんしんなのだった。

■その評判
 私のヒラリーに関する乏しい知識はこの程度だが、丁度JMM ( http://ryumurakami.jmm.co.jp/)から [JMM 222Sa]「ヒラリーと日米関係」from 911/USAレポートというのが届いていた。
6月14日のことだ。

 私は今まで自伝というものを買おうと思ったことがない。自分に都合の良いことを書いて都合の悪いことは隠すに決まっていると思っていた。
しかし、このレポートを読むと買ってみようかという気になってしまった。

 レポーターの冷泉彰彦氏によると、どうやらこの本は 
『読み物としても「なかなかどうして」という感じが出てきます。』
『いずれにしても、大した読み物です。影のある人物像、光と影の交錯する人生の皮肉、愛憎の激しい振幅とその功罪、長い時間をかけた人々の争いと和解、人間の生きるエネルギーに関わるエピソードが詰まった本です。』
ということらしいのだ。
 買うつもりのなかった本だったが、そう聞くとこの本は読んでみたい日本では 来年1月の発売予定だそうで、冷泉氏曰く、
『翻訳の仕事は大変です。特にこの本のようにリベラルな硬質の知性と、冷徹な政治的計算に加えて、人間性の隠し味も溶かし込まれた独特の英語を、息遣いのある日本語にするのは苦労が多いと思います。ですが、何とか一ヶ月でも早く日本の人々にも読んでもらいたいように思うのです。』
ということなので、私の英語力がないのがつらい。たぶんそこまで読みこなせないだろうけれどもでも本屋へ行ってみようかと思うような本だ。

因みに、彼女の カトちゃんめがねの彼女の写真は裏表紙に出ているようだ。

■男性社会での女性

長年の仕事を通じて、本音を書くと、女性が男性と肩を並べて仕事をするということは大変な精神力が必要だと思っている。もしかすると一部の恵まれた環境にある人は「私の会社ではそんなことはないわ」とおっしゃる方もあるかもしれないが、そういう方はほんの一握り。世間一般にみるとやはり根強い男社会を感じる。私も今働いている会社では大卒男子と同じ待遇で雇われているし、給料の金額的にも同年齢同資格の男性と比較して劣ってはいない。ほぼ、フェアな扱いを受けていると思う。しかし、女性がこれ以上に進もうとした時に 捨てる必要があるものが今の世の中で多いと感じているのは確かだ。

 たとえば、男性は目立たない人でもそれなりに昇進していくが、女性が管理職になるには、「大きな自己アピール」をしつづけなければならないか、もしくは「何かを捨る」必要があるというように感じている。
私の身近な近い年齢の女性管理職たちは 皆独身だ。
 たしかに、結婚している私には 「仕事」以上に私がやらねばならないことがあって、それを天秤にかけると家庭側を取らざるを得ない。しかし、会社側で問題になるのは、どちらを優先したかではなく、「会社にどれだけのことができたか。できるか。」であるはず。たとえば、自分の力を30%出して完璧に仕事を行えるひとであれば その割合をとやかく言う必要はないと思うのだ。
少し前に「ガラスの天井:何一つ問題がないかのように見えて女性だけが昇進できない」という言葉があったようなそういう問題は今でもやはり存在しているなあと思うのである。

 そういう面で日本よりも進んでいると思えるアメリカだが、まだ女性や黒人の大統領は出ない。議員などでも平均して男女の比率がほぼ1:1もしくは人口比率と同じ比率となるような状況でなければ 性的には平等とはいえないと思っている。つまりはある一定の年齢や性別に偏らない検討と決定が議会などで行えることが必要なのではないかと常々思っているのだ。

■ヒラリーの大統領戦への意義

そういう意味で、今は出ないと言っているが ヒラリーの大統領当選を今現在私は望んでいる。

 もうかなり前になったが、エジプト発掘で有名な考古学者 吉村作治氏の講演を聞きに行ったことがある。彼は研究室について「比べると、優秀な女性が多い。」とおっしゃっていた。研究室の実体は私にはわからないが、男性だから、女性だからではなく、彼のように内容を評価するべきと思った。

 性差別について私の印象は、男性の知性が高くなるにつれて、フェアな人が多いように感じている。知性のある人ならば目先の性差に惑わされずに その内容そのものをきちんと自分の頭で把握でき、考え、判断することができるからであろう。

 そういう意味で、女性が大統領になるということは 能力的には無理はないと思う。
(ヒラリーさんは今のブッシュさんよりずっと賢そうにも見えたりする。:政治能力ではなく単に見かけ上はの話)
アメリカでの女性大統領の誕生は、世界に影響を及ぼす歴史的に大きな一歩である。

しかし、当選した暁には女性であるがゆえに風当たりも強く、かなりの困難が待ち受けているであろうと思う。同じ女性として、後に続く女性のためにも どうか力みすぎてつまらない失敗をしないようにと願う。能力だけでなく したたかさを兼ね備えた彼女なら 一人目の女性大統領の職にソツなく就けるかもしれない。とひそかに期待しているのである。

■長くなっているけど もうひとことだけ。ごめん。

ところで、冷泉氏のこのレポートには気になる言葉がかかれている
『ヒラリーが気をつけなくてはならないこと、それは「自分の正しさに溺れないこと」です。クリントン政権には正しさがありました。ITも金融グローバリズムも、人権も軍縮も銃規制も、どれも一定の正しさがありました。ですが、決定的な弱点は「正しさについてゆけない層」への配慮に欠けた点でした。』

 ヒラリーさんのように大きな話ではなく、自分の身の回りのことだが、私はいままでもしかしたら「自分の正しさ(もしくは自分なりの正義)におぼれ」て、「正しさについてゆけない」人への配慮に欠けた行動をとったことがあるかもしれない。 妙にはっとした言葉だった。
 バックナンバーへのリンクでで全文をご紹介できないのが本当に残念だ。

日記が消えた 2003,6,16
今朝(17日朝)見たら、日記が消えていた。がびーん。

シンクロ 2003,6,15
金曜に大王の保育園で体力勝負の保育参加。汗だらだら流しながら園児達と帽子もかぶらずに 凍り鬼とか座り鬼とか走り回り、中には大人とみるとオサルのようにのぼりたがる子たちも多くて、おんぶしたり抱っこしたりおんぶしたまま立ち上がったり、子供達も5歳になると足も速い上に、相手は多勢に無勢ですからかないません。ももの筋肉パンパンになってしまいました。

 帰ってきた大王は、やはり嬉しくて楽しかったらしく興奮さめやらず、その興奮は夜まで続きました。

土曜日、大人達はあちこち筋肉痛。ロボットのようにギクシャクする体でいつもよりも遅く起きだしました。さすがの大王も朝良く寝ました。が、昼頃になるにつれ復調のきざし。通常休みには大王は家の中におさまりきれなくて外に出た方が大人も楽なことが多いので、相談の結果、ギクシャクロボットの大人達と大王はお出かけ。でも、さすがに大王も少しは疲れていたようで、ところどころ座ったり。
夕方帰宅時に「おうちにかえって、ご飯たべたらすぐに寝る」と耳を疑うような(大王は宵っ張り)大王の宣言を聞いたので、pon2も疲れていたことから 途中で夕食を取るという案にすぐ賛成。

■話はボーダレス

夕飯を食べようと入った店は隣のテーブルにも大王と同じくらいの年恰好の男の子とお父さんとお母さんと妹が座っているようでした。pon家が席についた頃には隣のお父さんは少しビールが効いて来た頃のようです。pon家の隣にはお父さんと男の子が向かい合わせに座っていました。
 さて、pon家は席について、注文がくるまでの間昨日の話をしていました。氷鬼と座り鬼をしたこと。大王がルールなどを一生懸命説明してくれます。保育参加にはpon1,pon2二人とも参加したので3人でわいわいと話をしていたのですが、話の切れ目に隣のテーブルから、
父「氷鬼、このあいだやったじゃないか」 子「...?」父「ほら、日曜にお父さんとやっただろ」うんちゃらかんちゃら。 
 
 まるで一緒の飲み会でもしているかのように隣のテーブルに話が広がっています。ちらりと隣のお父さんを見るとすでに顔真っ赤。ちょっと酔っ払い状態でした。子供のほうは、もう少しクールだったようで、凍り鬼の話は盛り上がらず、「お父さん わっつ でぃーす?」なんて言い、お父さんは「わからん」なんて言っています。話がまったくかみ合っていません。
お父さんは凍り鬼の話がしたかったんだろうなあ。pon家が盛り上がっていたから 盛り上がりたかったのだろうなあと気の毒に思いました。
でも、あれは多分大人数だからこそだと思うよお父さん。家族だけでやると、盛り上がる前に飽きてしまうと思うよ。なんて心の中で隣のお父さんに言いました。

 お隣がキャベツとお味噌汁のお代りをしている頃にpon家は皆満腹になったので、帰りました。
帰りに男の子を少し見るとお勉強をたくさんしてそうな 男の子でした。

■シンクロ

 隣の人や近くの人の話が伝染するのは、多分皆さんが経験していることだと思うのですが、ここのところ私はネットをふらふらしていて、その人と話をしたわけでも 同じ経験をしたわけでもないのに、丁度同じ時期に自分が書いたことに似たことをみつけたりして、その偶然に驚くことがいくつかありました。

 私がそのページを見て書いたわけではないですし、多分書かれた方は私のページを見て書いたわけではないと思います。書いた日付や時間が入っているページですと、私のほうが後から書いていたりするときも多いです。

 人の文章を読んで触発されて書くことも時々ありますが、そうではなくて、全く自分の頭の中に浮かんできたことを書き連ねたときに、丁度時期を同じくして 同じようなことを考えていた人がいたというのは なんだか不思議な思いがします。

偶然かもしれない。でも、人間同士なにかで本当にシンクロしているかもしれないなあ。
なんてふと思いました。 

■話は少しそれて

大王がまだ私のおなかの中にいる頃、一般に言われる「つわり」なるものが私にもあったわけです。
食べ物の嗜好が一気に変わってしまったりというあれです。
 私もいろいろなものが食べられなくなったのですが、不思議にご飯だけは沢山食べることが出来ました。また、たとえばパンならパンで一種類のパンが凄く好きになってそれを何日も何日も続けて食べるのですがある時ぱったりとそれが一口たりとも食べたくなくなるのです。
 私がそれしか食べないので、毎日雛に食べ物を運ぶツバメの親のように同じものを買って帰ってくれていたpon1はある日突然 「これ、たべたくない」となってしまう私に戸惑っていました。
 いえ、pon2本人も戸惑いました。

 今大王を見ると「おぬし、あやつっていたな」と私はひそかに思っています。

大王はご飯が大好き。なにがなくともご飯です。調子が悪い時もご飯ならたべます。
そうして、大好きなものはとにかく続けて食べます。そうしてある日突然嫌いになるのです。

 そうして、彼が嫌いになったたべものは、 バナナ・メロン・パイナップル などなど。
親が「そんなに食べる?」と心配しながら見ているとそのうちぱったりとたべなくなり「メロン嫌い」になっちゃうのでした。

 私が眠いときは大王も眠いとか、寝ている格好が同じとか、不思議なシンクロは親子間では比較的よく目にします。これも単なる偶然かもしれません。親の私には 「子供の気持ちがつたわる」という実感はな〜んもありませんが、でも そういう意識とは別のところでやっぱり 親子はシンクロしていたりすることもあるのかもしれないなあなんて少し思っています。

 無意識の領域には人間が自分でも驚くようなことが沢山あります。科学的に人間がその存在を解明してなくても何らかの伝達が実はあったりするとこれはこれでロマンだなあなんて思ったりしました。

パーフェクト・ブルー 2003,6,12
ここのところ、久々に文庫本に凝っている。前に買って積んであったものを崩して物色しては読み始めている。

■パーフェクト・ブルー

宮部みゆきの最初の長編だそうだ。話題のブレイブ・ストーリーも気になるが、小学生が一生懸命読んでいるのを見かけたら少し本のサイズが大きい。持ってあるくのに不便だ。当初この本を購入したのは、「犬の視点で書いてある」「宮部みゆき」「初の長編」「文庫本」ということで。

 探偵事務所にいるマサは元警察犬。野球部エースが殺される事件に関わって 探偵事務所がその事件の謎解きをすることになるのだが。

 以前読んだ火車ほどうなるような読後感はなかったものの、彼女の才能の豊かさを感じる本であった。この人の魅力は、時代物もこなし、本格的な推理物もこなしという守備範囲の広さもあると思う。
 この本は、元警察犬のマサの視点ということで、登場人物も親しみやすいし、探偵事務所のメンバーも家族というように、まるで赤川次郎の推理小説のようなかる〜いもののような印象を受けるが、それが後半に行くにしたがって、「そんな簡単なものではなかったんですかあ〜」と、遊園地の汽車にのったつもりだったら、あらら、実際はカリブの海賊(※)なんですか〜というような。

軽く始まって、本格的推理小説の醍醐味を味わい、まるでロビンクックの著作のように、手に汗にぎる展開もあるという感じ。
 宮部みゆきの他の著作と比べると、少し盛りだくさんで中途半端な気もするが、十分よみごたえのある本であるとおもう。

 ※(ディズニーランドにいらしたことのない方のために、カリブの海賊とは ちょうちんのさがった船着場からオキラクにちゃぽちゃぽと船で出発したら、途中がウオーターフォールになっていたり、普通の遊園地では想像できないほどの広い空間で、雲は流れるわ、大砲の打ち合いがあったりというようなしかけはあるわ、最初に見たときには本当にビックリしたものです。)

■心とろかすような マサの事件簿

上の続編であり、短編集である。こちらは上に比べると軽く気楽に読めるものだ。
パーフェクトブルーではじめて登場したジャーマンシェパードのマサは この事件簿では生き生きと動き始める。実はパーフェクトブルーでは「犬の視点で書いてある」とはいってもなんとなくぎこちない気がしていたのだが、こちらの短編集ではマサは雄弁でマイペースに活躍するマサの姿が目に浮かぶようだ。動物好きの方にもオススメ。

 内容は、パーフェクト・ブルーよりも身近な事件だが、これも下町の出来事のように親しみやすくて良いようにおもう。
 主要な登場人物の一人に犬好きの友人と似ている名前があるのも私が親しみを感じてしまっている理由のひとつ。
 こちらは通勤時の読み物としてオススメ。残り1編はまだ読んでない。

 推理小説は、どうしても作者のパターンというのが色濃く感じられるものが多いのだが、作者を意識せずに読むと同じ人が書いたと思えないほどいろいろな著作があり、多才な人だとあらためて思った。

さて、帰りは残りの一編だ!

リアルとネット 2003,6,11
ここのところ、以前よりも体調がよくて、気持ちが外に向かっているなあと思うことが多いのだが、ふと「おりょ?」とおもうこともあり。どうも私はネットへの興味が薄れているようである。なぜに?前は考えることばかりで、今度は考えずに動くことばかりでなんかバランス悪いような。
ううう〜む。
 少し前の体調のいまひとつのときには、次から次にあたらしいスクリプトが気になって気になって一週間に何個も置いてみたりとかしてたのに、今はそれこそぜんぜん。
まあ、人間のやることは波があるのが当然だからそういうものなのかもしれないなあなんて思ったり。(特に私の場合は波がある人間だし)

子供の頃の私は、熱が出ると部屋の隅っこの方に行って妙に細かいことをする子供だったらしい。
なので、母などは、静かになって部屋の隅で私が細かいことをし始めると要注意。おでこを触ってみて「ああ、やっぱり」という子であったとよく聞いたものだ。もしかしたら、ネットにはまり込む時期は私にとっては普通ではない状態のときなのかもしれない。
 たしかに、部屋の隅+細かい事+一人っていうのは私にとってすごくツボ。大好きな状況ではあるのだ。そうして、cgiを触っているときというのは同じような脳波が出てると思う。

■体調の悪い時に見たい映画

 先日、頭痛ですごく調子が悪かった時はそういえば テレビで流れた音楽から、「あ、この音楽。砂の惑星だ」と思い出し。突然「砂の惑星」を見たくなった。この映画。醜悪な場面もあり誰にでもオススメというものではないのだが、私にとっては何故だかわからないが好きな映画のひとつである。そうして、見ているうちに気持ちが落ち着くというか。体調の悪い時に一人で見たくなる映画だ。
 頭痛だからと久々に部屋に篭らせてもらって、映画を見ていたのだが、当初は遊んでいる大王の声がきになったり、そのうちに私のことが気になった大王が 「ママ。なにしてるの?」とやってきて、字幕の映画を一緒にみながら「ねえママ今なんて言っているの」「今度はなんていっているの?」なんて逐一聞くものだから、私の「静かにひとりで浸りたい」という目論見はあっという間にはずれてしまう。
 いっそのこと筋は何度もみて知っているわけだから日本語にしようかと思ったのだが、なんと!吹き替えが入っていないことが判明。しょうがなく一緒に見ているうちに、大王すこやかに沈没して、醜悪なシーンが来る前に寝てしまってくれ、ああ、よかったと思ったりしたのだった。

 同じようになぜか分からないが好きな映画で特にさほど気分がハイでなさそうなときに見たい映画というのはいくつかある。

・ブレードランナー
・誰かに見られてる
・砂の惑星(今回の)
・ルードヴィッヒ
・惑星ソラリス
・12モンキーズ などもすきかも。

など。 共通する特徴をあげると、

・画面が暗い
・明るい話ではない
・日常的ではない(ありえない設定、ありえない時代の話)
・あまり単純な話ではない
 
という共通点が挙げられるのかも。

 「落ち込んだ時に聞くと良い音楽」という話が以前あったのを思い出すのだが、落ち込んだときには明るい音楽はダメだそうで、悲嘆にくれるような音楽から少しずつ明るめの音楽にうつることによって今でいう「癒し」の効果のようなものが期待できると聞いたことがある。たしかに、落ち込んでいるときに、妙に明るい音楽を聞くよりも、しっかりと悲嘆に暮れた「悲愴」とかを聞きたいかもしれない。

■リアルとネット

ネットもそういう側面があるような気がする。ネットをしている時は、たとえ同じ部屋の中にだれかがいたとしても端末としてのパソコンと自分という世界でクローズしていることが多い。
 疲れも人それぞれにパターンがあって、私にとって体力的な疲れは寝ればok。
精神的なストレスや疲れは、その度合いや原因によっても微妙に変わるが 

<超現実に自分を置く疑似体験をする>
 本を読んだり、映画を見たり、劇をみたりする。
<なにも考えない状態にする>
 編物、刺繍、掃除、片付け、パソコンでcgiを触るなど
<感動をする>
 自然にふれて、綺麗だとおもったり
 映画をみて、涙をながしたり。
<人と話す>
 ネットやリアルでのおしゃべり

などで解消しているのかなあと思ったりした。
ネットは 「おしゃべり」としてとらえる場合と、cgiをつくるという「人を介さないもの」として捉える二つの側面があるみたいだ。

■怖い夢

 以前、保育園で聞いた話だが、子供達が怖い話やショッキングな出来事を話すという行動は話すことによって、自分の中で消化しようとしている行動であるということだった。
 たしかに、大人でも、嫌だったり、怖かったりしたことというのはだれかに話してしまいたい衝動がある。
 そういう話を聞いた大人は むやみに「そんなこと言っちゃダメ」といわないようにとのことだった。

 ふと、私が静かな気持ちになりたいと思うときに選ぶ映画は、少しだけ悪夢めいていたり悲しかったりする映画が多いように思う。超現実を選ぶのは、ありえないお話であることから、「自分の実際の生活とは違う」とあきらかに認識できるからかもしれない。
 疑似体験として悪夢めいた話を体験して、解決するという結末まで見終わったときに一緒に自分の中のもやもやした気持ちも一緒に捨て去りたいという気持ちの動きかもしれないなあと考えた。

 以前にも書いたかもしれないが、ひとつだけ追加だが、悪夢*めいた*映画が好きだが、悪夢はキライだ。
絶対に嫌いな映画がある。それは「13日の金曜日」系。これだけは見たいと思わない。
これは、刃物がでてきて理由もわからず誰も彼もが傷つけられるうえに、終わりがない。これこそが悪夢。

おなじはちがう。ちがうはおなじ。 2003,6,10
 妙に耳に残ってしまった言葉である。なんだっけ。。と思い起こしてみると、「私の記憶が正しければ」(<料理の鉄人という番組がありましたね)少し前の犬夜叉というマンガで、「かごめ」の前世の姿である「桔梗」の言葉であったような気がする。

 今風にいうと 二面性をもつ化け物がいるのだが、情け容赦ない化け物の姿と情に厚い善人の人間の姿をみたときに 弱ってしまった桔梗が息も絶え絶えにいみありげにつぶやく言葉だったように記憶している。(家事しながらみてるから、ちがったらごめんなさい)

■気持ちをわかる

 たとえば、人の気持ちをわかろうとするときに、皆さんはどんな方法をとるだろうか。
これは私の場合の例だけれども、自分の経験の中でその状況に似ているときを思い出し、そのときの自分を振り返ってみるという手段があると思う。
 もうひとつは、自分がもしその状況だったらどう思うだろうと一生懸命その状況になったときの自分の気持ちを想像するかもしれない。

 前者も後者もある程度は有効ではあるが、限界がある。
自分が体験をしたことがないものは、想像もつかないのである。
あくまで私個人が経験した範囲の中でしか人の気持ちは考えられないことになる。

 人の気持ちにおなじになりたいとおもうけれども、結局は違う状況でしかありえないということだろうか。

■同一性の追求

だれかに好意を持っている場合、人としてはその人の気持ちに沿いたい。共感を得たい。同じ気持ちを共有したいと思うのが自然ではないかと思う。
 つまり、自分と同一の部分を追い求める。もしくは相手の趣味・興味と同じ物を自分が追い求めることにより自分が相手と同一性をもつように変化したいと思うようなことだ。
 人間関係などは 同一の趣味や共通する話題などがある場合にうまく行くというのは世の人達皆がよく経験していることだと思う。
 
■異質の発見

同一性の追求が、人付き合いの第一歩だったとしたら、次のステップは異質なものの発見と容認のように思う。自分の本当に仲の良い人、信頼している人を思い出すとき、その人は自分と共感する部分もありながら反対の要素を沢山もっているひとであることも多いのではないだろうか。
 しかし、もう一歩すすんで考えてみると、お互いその異質な部分に否定的でないことに思い当たると思う。たとえば、「良い意味で自分との異質性を認め」たり、「あまり良くはないけれども些細なこととして異質性を認め」たりという意味である。
 
 たとえば、私には仲の良い友人がいるが、彼女達の特徴をあげると「細かい」「まじめ」「努力家」など、私の持っていない長所として彼女達の長所をとらえているようにおもう。

以前書いたことだが、たとえば「細かい」というのは長所にも短所にもなる特性だし、「まじめ」などは言い換えると融通が利かないというように同じ性質でもそのとらえ方は表裏構造になっていて、同じ性質の人をみてもそれを良い点ととらえる人悪いところとしてとらえる人がいるということであろう。また、十把ひとからげに 「この人たちはまじめ」と区分しても 人それぞれにその発揮する「まじめ」の度合いや発揮ポイントなどは違うということになる。

■おなじはちがう

妙に心にひっかかる言葉なのは、意味がわからないことばだからだとおもう。
よく、このロバミミに「理解できないことを言う人を偉いとおもってはいけない」みたいなことを書いているのだが、実際 「同じ」「違う」というのは 相反する言葉であるからして それに対して 「は」という そもそも イコールを意味する言葉でつながれると どうも居心地がわるくて気になってしまうのであろう。つまり「それってどういうこと?」と聞きたくなってしまう。

 いや、実際は、「同じ」とは「違わない」ことをいうはずなのだ。

でも、数学的に、理学的に「同一」という概念とそれを「生き物」に当てはめた場合はたぶん違う。「同じは違う」ということが発生するのだろう。

 あなたと私は「同じ」とおもっていても、かならず「違う」ところがある。
「違う」とおもいたくても「同じ」ところがある。 
そんなことを たかだかマンガのキャラが喋る言葉について考えていた。

でも、高橋留美子。こんな風に桔梗にしゃべらせるなんて、やっぱりすごいなあ。

ハリーポッターと秘密の部屋 2003,6,9
週末に動かない日々を数ヶ月過ごしていたのだが、最近は出かけてみようと思うこともあり出かけるようになってきた。すると、トシというものはしらないうちに忍び寄ってきているものだなあと再確認することも多い。
 今週末は盛りだくさんなスケジュールをこなし、大王はご機嫌なのだが、家族としては「どよ〜ん」と疲れている空気が漂った週明けである。
 ああ、だらだらと一日寝て過ごしたい。だけど、休みの日はなぜか早起きの大王なんだよね。

ということで、今日は私の脳みそがあるとしたら 覚醒しているのは、1%未満のような「ぼよよ〜ん」とした状態なので、久々の読書感想文(にもなってないのだけど。。)でお茶を濁そうと思う。

■ハリーポッターと秘密の部屋

これは、映画を見てしまったのが失敗。もともと苦手な英語の本を勉強のつもりでストーリー展開への興味を頼りに読んでいたものを、その前にどうしても我慢できずに映画を見てしまったので、なかなか読めなくなってしまいました。 また、内容を知っているので、英語の文章を理解するよりも先に単語でその状況がわかってしまって、読むこと自体もぜんぜん勉強にならないという状況になってしまいました。
 次回は映画が来る前に読もう。

 私は英語と日本語の能力差がかなり大きいため、日本語でハリーポッターを読まないと読書感想文にならないかとも思うのですが、ハリーポッター。
 この何巻にもわたるお話の構想がすべて練られてから書き始められたということだろうかと驚きました。それほどエピソードで巻が分かれているものの、1巻から続く丁寧なストーリー作りが感じられました。

 以下ネタバレですが。

 この巻で一番唸ったのは、ハリーとヘビの関わりです。
ヘビといえば、映画のインディジョーンズが なぜヘビを嫌いかという話を思い出しますが、あの映画のように、第1巻でそれに当然のごとくに触れられたヘビとの一件がここで重要な意味をもって「ああそうだったのか」という謎解きがあります。 このあたりの物語の組み立ては1巻から引き続きうまいなあと思いました。
 なぜその能力があるのかという説明まで加えられた内容をみてみると最後にむけてもう一ひねりあるでしょうかと次の巻の展開を少し期待しています。

 ハリーポッターの叔父・叔母があまりにも典型的な「いじめ」をハリーに行うことがいまひとつこの物語に入り込めないところなのですが、御伽噺や童話には比較的良く出てくる「いじわるな継母」というプロトタイプはどういう意味を持つのか少し気になるところです。

 子供から見ると家庭という環境は自分では変えることの出来ない大きな力であって、それから抜け出しては生きて行くことのできない場であることから、その養父・養母が意地悪であり自分のやりたいこと(これは悪いことだけではなくすべてのこと)について理解をしめさず反対し、邪魔されるという状況は、大人が社会において 八方塞の状況に来てしまったという感覚に似ているようにも思えます。 そういう状況に負けずに自分の力で前向きに打破していく という意味にとれば現実味を感じられないほどの叔父・叔母の意地悪ぶりなどは 子供の心に強く働きかけるものかもしれないなあなどと素人考えに考えました。

 大人の私の目から見ての 面白味としては丁寧なストーリー展開にもありますが、他にも社会の縮図が書き込まれているところにもあります。前にもこのロバミミに書いた事柄も含まれますが、実際この第2巻を読んで、「実力が伴わないのに 派手なパフォーマンスで名声を得ている先生」「魔法使いの血筋でありながら魔法が上手く使えない人(DMで来る通信教育を受講しようかとしていたり)」「純粋の魔法使いの血筋を鼻にかけている人」「魔法使いの血筋でないものから生まれた魔法使いとして、能力を持っていても差別されてしまう人」などは現実の世界におきかえると思い当たることもあるかと思えます。
 (映画ではあえて差別色を薄くしたのでしょうか。このあたりに関係する描写はかなりカットされていました。実際、DVDについていた 未公開シーン集に集められたシーンでは マグルという言葉が入っている場所や 魔法が上手く使えないスクイブに対するシーンなども削られていました。少し前のことですが、アメリカ映画では人種差別などに敏感で、たとえば白人が主役の映画でも ストーリーに無理がない範囲で大抵押さえの重要な役柄に黒人をつけるなどの配慮があったということを聞いたことがありますので、差別色を薄くしたということもあながち深読みではないかもしれないとも思ったりしています。)

 ひとつ、辛いところといえば最後の展開までの前ふりが毎度長いこと。
謎解きとして読む場合に 1,2巻を通して思ったのは 前半に出てくるたくさんの状況は最後のどんでん返しで自分が思っていたほどの重要な意味を持っていなかったことに気がつきます。
 第3巻もこの調子で進むとすると 読んでいる私が前半だらけてしまいそうだと思います。
話の展開パターンが3巻からは違えばうれしいのですが。

■明日香の皇子
この本は読書からは遠ざかっていた私が久々に読んだ本です。
随分前に購入してからずっと我が家に積読になっていたもののひとつです。

内田康夫の本の中でかなり評判が良いとあとがきにありましたが、私からすると中途半端な印象を受けました。先日の映画「ブリジット・ジョーンズ」についてある種の少女漫画に似ているという話を友達から聞いて「ああ」と納得したのですが、そう。この場合は、ビジネスマンが読むようなマンガ(品があまり悪くないもの)のような印象をうけました。

これもネタバレになります。
まず、主人公の男性は 自分ではなんとなく暮らしていたのに 気づいてみたら一般入社は困難な会社で、なぜか仕事がとんとん拍子に認められている。かつ、性格も良い。姿かたちも麗しい女性と知り合い、彼女はどうやらわけ有りのお嬢様らしい。
 という 男性ビジネスマンならば 「こうなればいいなあ」なんて思いそうな設定から始まります。
 中途半端というのは、ファンタジー 推理小説 劇画タッチの冒険小説という色合いがすべて含まれていてそれが高い評価に繋がっているのではあるのでしょうが、反対にそこが私には今ひとつの印象を受けた部分でした。

 ファンタジーならファンタジーで最初から最後までもっと荒唐無稽にぐるぐるこちらを振り回してほしいものだと思うし、推理小説なら推理小説でもう少し舌をまかせてほしい。冒険小説なら冒険小説で、もっと主人公に活躍を。。と思う本でした。

はだかの王様 2003,6,6
 王様はおしゃれだった。いつも最新のファッションを身につけていないと気に入らなかった。ある日、王様の元に二人組がやってくる。彼等は洋服屋だそうだ。彼等が作る服は素晴らしい洋服なのだが、残念なことに愚か者には見えない。大さまはその洋服を注文することにした。
ところが、洋服の仮縫いの時期がきても 王様には布地が見えないのだ。王様も家臣も自分が愚か者なのかと驚き、うっかり見えないといってしまっては他の人にばれてしまうと思い、気が気ではなかった。

というのがはだかの王様のストーリー。結局、その二人組は詐欺師だったのだが、誰もが自分が見えないとは言い出せないが、子供のつぶやきから二人の悪事がばれてしまうという話だった。

■有形無形

 裸の王様の二人組は、詐欺師であったということで、下で書く職業とはまったく違うということは はっきり認識しておく必要はあるが、ところで、話を現実の世界に移して、世の中の物の価値。有形のもの・無形のものと比較すると、やはり 無形というか形の無いものの方が値段が高いように思えるものが多くあることに気がつく。たとえば、景気が悪い昨今では、形のある商品はどんどん値下がりしていくが、ノウハウを売るコンサルタントや、セミナーなどは時々驚くような金額だったりする。 それはお客様の満足度が価格となるからだろう。
広い意味では、絵画の価値なども同じかもしれない。作者の芸術性というのは数値ではかりようのないものであり、「流行」という別の要因も影響したりする。 
 「絵」という実体があったとしても、「誰が書いたもの」というネームバリューという無形のものにつく金額も高い。
 
 最近流行り?の コーチングというのも無形のノウハウである。
(スポーツのコーチではなく、コンサルタントに似ている業務のこと 検索すると沢山ヒットすると思う)
教育産業もある意味それに近いものがあると思う。「教育」という無形のものに対して支払う対価であって、決して教材などの品質に対して払うものではない。

 たしかに、人は目に見えるもの、手で触れるものについては比較して評価しやすいが、そうでないものはなかなか評価しにくい。

 王様が購入する洋服も、
 「金糸がふんだんにつかってありますゆえ、重厚な織りあがりになっております」
 「最高級のテンの毛皮を使っております。」
 などと形容するものよりも、
 「材質は企業秘密ですが、虹の色をふうじこめたようなことばでは言い尽くせないほど美しい織物で、それをまとうと春の風のようで ここちよさは天上の織物のようであります。」
 なんていわれてしまったほうが、素晴らしそうに思えてしまうのは私だけだろうか。

  目にみえてしまうことによって、
  「金糸がふんだんといっても 織り柄がいまひとつ好みでないぞ。」
  「テンの毛皮だったら、先日のもののほうがよかった」などと比較しやすく選択しやすい。

 さらに考えると「お金」自体が不思議なものである。もともとは物々交換していたものを お金を介してやりとりするようになったということだが、結局はそのお金がオールマイティでそれ自体が価値をもつものと発達してしまったのである。これも形はあるようでない 無形のものの仲間のように思える。

■結論のない結論

きょうは不思議だなあということだけで 結論がないのだ。
私の不思議は、
「人間」というのは生き物なので、実体のないものだけでは生命活動を維持することが出来ない。
でも、現代の世の中をみていると、 実体のあるものよりも無いもののほうが驚くような価値をもっていることが多い。そうして、高い・安いの基準となる「価格」自体がまた 「お金」という そのもの自体にその金額分の価値のないものである。(たとえば一万円札はどんなに印刷が綺麗にされていても、それを「物」として評価したら たぶん1万円の価値はしない)

なによりも不思議なことは、形があり機能がありのものは たとえ 携帯電話ひとつにしても今自力では個人で作ることはたぶん不可能で、大根ひとつにしても育てることを考えると絶対に割に合わない値段であるのに、どんどんと物の値段は下がっていき、(下がること自体は家計的には歓迎ではあるのだが)反対に、資格やノウハウや、教育費がガンガン上がっていくというのもなんだか不思議だなあと思うのだ。

 生きることに直接関係のないノウハウなどの値段のほうが高くて、それを売る商売が成り立つということは、ある意味 その国が金銭的に豊かであり、余裕のある人たちが多いということかもしれない。
4日も食べてなく、明日もたべることができるかどうかわからない時に、食べ物よりもノウハウを買うという人はそんなにいないだろうから。

■おまけ
資格には、国や団体で認定する資格と、個人で自由に名乗れる資格などがあります。
一般の人が気をつける必要があるのは、 

1)資格商法

自社でつくった資格を取得させることでお金を取る会社があり、その中の資格には「マイク○ソフト認定なんちゃら」とか「ロバミミ社認定パソコン技術者」とか玉石混合いろいろあります。
その認定資格の効力はそれぞれいろいろです。
 記憶に新しいものの中には、「この教育を終了した方には 当社の認定証を与え、実力に応じて仕事を斡旋いたします」などいって 教育料をとり、仕事の斡旋がないというものもあるようです。
 平成13年度上期の消費者相談処理件数について経済産業省 (PDF)
 http://www.meti.go.jp/kohosys/press/0001999/0/011023customer-soudan.pdf 
  
2)肩書き
  肩書きについては、個人が自由に名乗ることができる肩書きもあります。
  「ロバのミミそうじ評論家」とか 「ロバミミコーディネーター」とか「ロバミミアドバイザー」などは 個人で名乗ることのできる肩書きです。   

臍をかむ 2003,6,5
うちの近くに巣を作ったカラスは、大王を突いてから後、散歩中の親子を襲ったらしく、先日巣の撤去を行うことになった。襲われたのはヨチヨチ歩きの子供さんで、pon1が見かけたときには おでこにバンソウコウがあったらしい。目をつつかれなくてよかった。

 先日は、ちびまるこちゃんで、スズメが巣を作ったところに おとうさん(ここのおとうさんはいつもひねくれた発言をしては顰蹙をかっている)が 巣なんか取ってしまえというのだが、
ヒナを見たとたんに、可愛くなってしまってひそかに見守ってしまうという話をやっていた。

カラスも、子供に危害を加えたりしなければ できれば生き物なのでそっとしておきたいと思うのだが、相手は動物。 「もともとうちのマンションがあったところに それを知っていながらあなた達が巣をかけたわけだから」と 既得権を主張するわけにもいかず。動物が弱いものを狙うという行動は本能だからしょうがないのか。
とにかく怪我をするような子供まで出てしまっては致し方ないということだろうか。巣を取ると同時に巣のあった場所にはもうこれから巣をかけられなくするために 針金をはりめぐらして防御したという報告書があった。

■ヤタガラス

ここのところ、NHKでもカラスの害についての報道が多くあるように思う。今朝もカラスについて報道していた。電線についているボックスを太いくちばしでつついて穴をあけ、そこに針金ハンガーをかけて風に強い巣をかける様子などが紹介されていて、その頭のよさには驚いた。
 近くで見ると、かなり大型の鳥なので、脳もハトやスズメとは格段に大きいのは大きいのだろうが、同じように大型の鳥でも 身近ではないせいか 鳶や鷹などがそういう行動をするというのは聞いたことがないので、昔から人間の近くに住むとても頭の良い生き物であると 別格で扱われていたのかもしれない。

私はまったく詳しくないのだが、JFA(サッカー日本協会)の旗のデザインは 3本足のカラスだと聞いた。「ヤタガラス」という神武天皇の案内役として古事記に出てくる大カラスだそうである。

ヤタガラスについてのページ
http://www.biwa.ne.jp/~katori-k/karasu/karasu-1.htm

今朝の報道でも そういう人間から見ても、おどろくような「賢い」行動が ヤタガラスの神話に繋がったのかもしれないなあと思った。

私の子供の頃は烏は今ほど多くなく、それほど害もない鳥として認識していたように思う。私にとってカラスとは「カラスなぜなくの」と夕焼けとともにカアカアと鳴いて夕日の中を飛ぶ鳥であり、怖くて害をなす存在ではなかった。

田舎だったからかもしれない。あんなに沢山のカラスを見たのは関東に来てからである。
また、「飽食の時代」という言葉が少し前にあったが、たぶん、戦後の食べるものもない時代であったら、生ゴミもさほど出ることもなく、食料の調達もままならないので、今ほどに烏が増えるということもなかったのだろう。

■臍をかむ

今朝のNHKでは、カラスが巣をかけられなくするために 閉じかけの傘の骨がらせん状についているような形のものを電柱に設置する様子を映していた。
 カラス対策の秘密兵器のようである。
アナウンサーの 「カラスは ほぞをかんでいました」というコメントが そこにとまって悔しそうにその器具をついばんでいるカラスと重なって 上手いコメントだなあと思ったのだが、ふと、そういえば。。。。と。 実は「ほぞをかむ」というのは 悔しい思いをするときに使う言葉だとは知っているが、「ほぞ」とはなんだろう?というのさえ知らなかったことに気づいた。
 調べてみるとほぞとは臍(へそ)のことだった。 自分では臍を噛もうとしてもかめないー>悔しい ということかららしい。 なんとなくユーモラスな言葉だ。
 確かに臍は自分では噛めない。ふと これもまた昔の歌で 「亀の腹筋。ワニの腕立て 無理だ」
っていう歌があったなあ なんて思い出したり、臍を噛もうとして悔しがっている様子などを想像してみたりした。

■ハシブトガラス と ハシボソガラス
 以前、知り合いに「カラスは雑食だからね」と言ったところ「え?カラスは肉食よ!」と一蹴され納得の行かない思いをしたことがあるのだが、実際はカラスは雑食。ただし、ハシブトガラスなどはかなり動物質の食べ物を好むらしい。
 人を襲うのも ハシブトガラス。 それからゴミあさりなどを積極的に行うのもハシブトということだ。習性として、たかいところからエサのありかを見定めてから来るそうである。
 それを聞くと ゴミが上から見えないように置くだけでも効果があるような気もするのだが。果たしてどうだろうか。そういえば、庭に鳥用の餌場を作る時には、上空から見えないように屋根をつけるというのを聞いたことがある。(屋根の信憑性については自信がない)

 カラスについて
http://www.marimo.or.jp/AWOC/koho/97-9/9709.html
http://www.nikon.co.jp/main/jpn/society/birds99_00/200004/
http://www.city.kyoto.jp/kyoiku/science/sci-news/kansatu/n01j.html
 (下のリンクの写真ではハシブトとハシボソがいまひとつ実感できないです) 

へろへろ 2003,6,3
イチョウ葉サプリメント(お茶ではなくてサプリメントなんです。イチョウの葉にはアレルギーになる物質が含まれているので、気をつけるようにとの事です。)の効き目も2週間程度。またもやへろへろになりつつある。これじゃまるで、ドリンク剤みたいだなと思った。会社で仕事がきつかった頃に 「ドリンク剤のんで頑張る」という人がいて、私も試しに購入してみたことがある。
その日は非常に調子が良かった。だけど、次の日はへろへろになってしまった。商品によるのかもしれないけど、私はドリンク剤は 「元気のクレジットカード」と思っている。ツケがあとからくるんだもの。

■長い
pon1から 「またまた長かったねえ」と言われてしまい。そうなんです。なんかロバミミなが〜くなっちゃうの。
短くしたいんだけど、この日記。一日に1件しかかけないから 書きたいことを忘れないうちに皆書こうとおもうとドンドン長くなっちゃうみたい。

■昨日の帰りはつかれた
昨日の帰りの電車はと〜〜〜〜っても疲れてしまいました。
始発の駅からときどき、知的障害の方が乗ってきます。彼はもう体格は大人で私よりもはるかに大きいのですが、気持ちは子供なのでしょう。女の人に次々に「こんにちは!」と声をかけて握手をしようと言ってきます。中には無視するひともいるし、挨拶を返す人もいます。
昨日も 座っていたら 長身の体を半分に折り曲げて 私の目の前まで顔をもってきて、まっすぐに私の顔を見て「こんにちは!」と言ったので、私も「こんにちは」と答えました。

 私は挨拶は返しますが 握手は断ります。自分としては 「日本では大人は、握手は通常しないんだよ」と言いたいんだけど、この人の事情がよくわからなくて、どう接すればよいかわからないのでとりあえず断ります。以前断った時には 「握手するぅ。握手する。」と大声でダダになってしまい困ったことがあり、そのときは 後ろからそれを聞いていた男性がたぶん好意で かなり強引にその人をどけたことがあるのです。半分助かったような気もして、もう半分は子供の要求をはねつけてしまったような罪悪感みたいな気持ちが残ってしまいました。

 昨日はその後、「私はほかの人がこの場にいるから 握手しないって、言っているんだろうか。それとももしこの場にだれもいなくても私は握手しないって言うのだろうか。こういうとき彼に対しては本当はどう接すればよいのだろうか。どうするべきなんだろうか」とふと思ってしまい、彼が鼻歌を歌っていたのが、私が以前好きだとここにも書いた alone again だったという偶然もあって 少し落ち込んでしまいました。

 その人が降りたあと、たぶん20歳前後の男性が乗り込んできました。黒っぽい半袖のシャツを着ているのですが、その出ている腕には色鮮やかな大きな蛇のそれも半端ではないくらいびっしり色が植わっている刺青がありました。
(遠山の金さんよりずっと埋まっているって感じでした)片方の手は手首のところまで。もう片方は半袖からぎりぎり見えるところまでありました。彼は私のすぐ隣に立ちました。 こういうのって、今はとることができるんだっけ、とか 公衆浴場は断られる場合があるんだよね。とかどうして刺青したんだろうとか思いながら、でもまたとても緊張してしまいました。

そういういろんなことがあったので、昨日ほど電車に乗っている時間が長いと感じたのは久々でした。
とても疲れてしまいました。

■失敗
今朝、大王の保育園の準備をしていたら、1日でダビングしてくれというテープの回覧をわすれていたことに気づきました。大慌てで pon1がダビングしてくれようとして、テープからMDへのダビングは初めてだったのと最近このコンポを使ってなかったことで、私もあーでもないこーでもないとバタバタ。どうにかこうにかダビングできたようで、準備して出発したのですが、今日は大王のクラスでは おにぎりと水筒を持っていく必要があったのです。
 ご飯はおにぎりにしていませんし、水筒も忘れてしまった。 大王ごめんね。 私は朝から「やらなければいけないことができなかった。」という挫折感で疲れてしまいました。

いや、可愛そうだったのは大王なんですが。大王。本当にごめんね。

さて、気を取り直してがんばろう。

ローテクのすすめ 2003,6,2
先日の正直村・嘘つき村について、検索してみると、こんな答えもあった。
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一方の道を指して「あなたは、私が「こちらの道を行くと、正直村に行けますか?」
  と聞いたら「はい」と答えますか?」と質問します。
  <村人が正直村の人の場合>
   ・指した方が正直村なら「はい」、嘘つき村なら「いいえ」
  <村人が嘘つき村の人の場合>
   ・指した方が正直村なら「正直村に行けますか?」という質問には
    嘘をついて「いいえ」と答えますが、「はい」と答えますかという質問なので、
    嘘を付いて「はい」と答えてしまいます。
   ・指した方が嘘つき村なら、「正直村に行けますか?」という質問には
    嘘をついて「はい」と答えますが、「はい」と答えますかという質問なので、
    嘘をついて「いいえ」と答えてしまいます。
  結局どちらの村人の場合でも、指した方が正直村なら「はい」、嘘つき村なら「いいえ」
============

たしかに正解だけど、あることを実現するという命題に関してのこの答は美しくないので、いまひとつ私としては好きになれない。※

 ソフトウエアを作る人たちには大きく2つに分けることができると思う。
1)物事を単純に単純に解き明かそうとする人
2)物事を難しく難しくしてしまう人

もちろん、こういうこみいった論理を考え出すには優秀な頭が必要だとおもうが、ソフトウエア的にみるとこういう一見人間が混乱しそうな論理はバグを多く内在する可能性が高い。
 人間でも こみいった問いかけをされると、混乱してちゃんとした答えが返ってこない場合がある。「バグ」はそれに似ていると思う。
 まったく同じ結果を期待する場合人間が直感的に 「ああ、そうか」とすんなり理解できるような論理のほうが やはり質がよいものができることが多いのである。

ところが簡単な論理は沢山の人に理解できてしまうから、「頭がいいんだねえ」という尊敬は得られなかったりすることも多い。 また、昔の悪習としてプログラムサイズでプログラムの難しさを判断するということがある。実際は 「正直村と嘘つき村を知りたい」ということができればよいのだが、行数的に多いこちらのプログラムの方が評価が高いということが現実にはしばしばある。

本来は、「あなたの出身の村はどちらですか?」のほうがシンプルで美しい完成度の高い答えだと評価されるべきではないかと思う。

■サンダーバードとひょっこりひょうたん島

昨日初めて知ったのだが、日曜の夕方にNHK教育テレビで 「サンダーバード」と「ひょっこりひょうたん島」をやっている。
 大王は「サンダーバード」を食い入るようにみつめていた。
今の世の中、アニメーションもどんどんとCG化され、リアルな立体画像が動くものも多いのだが、この「人形劇」という手間暇かかる方法は、子供にとても訴求力のあるものだと改めて思った。

 自分の子供の頃を思い出してみると、人形劇が大好きだった。
もちろんお話の面白さもあるのだが、それとともに、「からくり」を想像する楽しさがあったようにも思う。

 たとえば、サンダーバードなどは テレビが良くなったからか画像処理されているからか、操りの糸まではっきりと見える。 パクパクと動く口 精巧な機械 みな なにか「仕組み」があって動いているのだ。 「どういう『仕組み』なのだろう。」と想像する。手品の「タネ」をみつけようとしたり、推理小説の 「犯人」をみつけようとしたりと同じように、「解き明かしたい」という気持ちをもって考えることができるのが 「からくり」である。
また、単純に動くものだったら自分でもつくれそうに思う。作ってみることによって、自分の想像の正しさや間違いを実感することができる。
ぎこちない動きの中には、沢山の不思議が詰まっているのだ。

 この「想像する」ということが、物理や科学にに繋がるように私は思っている。
「想像してこうなるのではないかと仮説をたてる」「実際にやってみる」「うまく行かなかったことを修正してまたやってみる」というこのサイクルは 大人の世界にも通用するものだ。
特に、このサイクルの中での「うまくいかないこと」への改善は ものの発達にとってとても重要なことである。

■ローテクのすすめ
私はどちらかというと ハイテクを使いこなしている方の人間であると思うのだが、ローテクの重要さというのをここのところひしひしと感じることが多い。
 たとえば、植物について、以前「掲示板で植物の同定(この植物はなにと見分けること)ができるか」という話で、実物を見ることの重要さ、標本の重要さについてある方が話していらしたことを思い出す。当初は色の変わって干からびた標本と 生きているそのままの花の写真にさほど差がないようにも思ったのだが、今になって思えば実際は大差がある。標本の持つ情報量は 写真の比ではない。たとえば生えている毛の一本一本芽のひとつひとつまでの情報を保有しているのが標本である。もちろんそれ以上に勝るのが実地に生えているものをみることであろう。
 フィールドワークの大切さというのが よく専門家の間で言われているのはこう言うことだと思うのだ。まず「実物を見る」事であると思う。

 先日こちらにも書いた日記の中に「ああ」と思う文があった。
http://homepage.mac.com/kensuke_nakata/essays/balance.html
この人がかかれているように、この感覚はどのような職業でも共通するものかもしれない。
私もこういう感覚が日常にあったりするわけで、何かを一生懸命に考えて考えてそうして あるふっとしたときに「あれ?これってこういうことかしら?」とわかったりすることがあったりする。もしくは、ある程度こういう仕事を続けていると「だいたいこのへんに問題がありそうなんだけど」なんて 職人技が発揮できたりすることもある。

 でも、それは最初からの単なる「あてずっぽう」ではなく、いくつかの地道なフィールドワークと言えるような物があって、「自分が意識していなくて」「考えてではなくて」どこかで思いつくような感覚だといえると思うのだ。(引用先では神の啓示とかいてありますが)
 最初から「あてずっぽう」で問題点をつくりだし、それがあっているかどうかの検証もせず、結果も測定しない人にはいつまでたってもその感覚は身につかない。

 「頭でっかちになるな」とよく聞くがそういうことだと思う。綺麗に他人の頭でまとめてある文をよんで分かったつもりになるのではなく、何かをすることによって自然に身についてくるものが重要というか。

 いや、一気にもっとくだけたことを書いてしまおう。
同じ動物を縦横にならべて消すという落ち物ゲーム(テトリスやぷよぷよみたいな)があるのだが、たとえば、それについて、頭で考えてやっているとあっという間にダメになる。
 なにも考えず無心に消していると思わぬ高得点が出たりすることはないだろうか。
最初は、「どうやれば消えるのか」「どうやれば 消せる候補が見つかるのか」と一生懸命探してやるわけだが、そのうちに何度も何も考えずにやるうちに不思議なことに得点が延びる。
 なんだかこういう人間の能力の発達も似ているような気がするのである。
右脳と左脳の連携プレーなのかもしれないな。

現在の子供達に本当に「生きる力」が少ないというのだったら、このローテク(実地にやること)が不足しているのかもしれない。もしくは、「うまく行かないということの発見とその克服」を自分でやらせずに、最初から「うまくいかないことのない道」だけが用意されているもしくは「うまく行かないことを容認していない」のではないかとおもう。

有名な言葉に「失敗は成功の母」という言葉がある。

補足※お気づきの方も多いとおもうのですが、こういう否定したり否定を否定したりするのは
回路設計に通じるものがあります。AND,OR,NOT,NAND,NOR なんていう種類があります。。
http://www.nanoelectronics.jp/kaitai/logicgate/index.htm 
興味のあるかたはこのあたりなど いかがでしょう。集積回路(IC)っていうのはコレの集りです。