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王様の耳はロバの耳(過去ログ)

普通は言わないけど、みんなどう思う?言いたいけど言う機会が無いみたいなことをおもいついたときに書こうと思ってます。

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つきあい 2003,4,28
 土曜日は、保育園のお母さんたちのはじめての集り(飲み会)があり出席した。
ここのところの私は、自分で「グレ子」と呼んでいる状態だった。
 仕事にしても家事にしても 手をつけようと思うと沢山あるのだが、いまひとつ前向きな気持ちになれない。

 原因はやはりいくつかある。片付けても片付けても、どんどんと散らかされてしまって、あっという間に元に戻る。そうすると片付けること自体が無駄なような感じでいやになってしまうのだ。
 たとえば、私が10労働力を使って片付けたとしても どうも 相手はその同量を2の労働力でちらかすことができるようだ。実力の差というか?(--;) 
つまり、綺麗な状態に保つためには 私は彼の5倍の労働力や気力が必要とかそういう感じ、手に余るのだ。
 仕事にしても、当初やろうと思っていたことがほとんど終わったことが原因のひとつ。
昔言っていた燃え尽き症候群?
もうひとつは、これから先仕事において目標としたいことが自分で見つからなくなってしまったことだろうか。

 また、そういうオーバーフロー状態のときにいろいろなことが発生すると、些細なことができない。できない自分は嫌なのにできないことがたまっていく。
すると 最後はなげやりになってしまう。
 
 ここのところの私は「ああ、独身のころは 自分のことだけ考えていればよかったのに。」
「自分がちらかさなければ 散らからなかったし、ご飯を食べたくない時にご飯を作る必要も食べる必要もなかった。それにもっときちんとしてたのに。」などと思っていた。

 これは「できている、できてない」の問題ではなく私の心の問題だと思うのだ。
  嫌だとおもいはじめたことを「やらなければならない」と、心にさからって毎日やっていること自体が ストレスになる。だから余計にうまくできない。
 ところがやらない自分は好きではないし、できてない状態もまたストレスになる。
 そうして現実逃避がはじまる。
今目に見えている世界はウソの世界だ。。と思いたくなってくるのだ。

■パワフル母さん
そんな状態だったので、参加はみあわせようかとも思ったのだが、こう言うときは行ってみるのも良いかもしれないと思い、参加した飲み会であった。

 お母さん達は、パワフルだった。パワフルな人は 一段と飲み会もパワフル。踊ったり、おしゃべりしたり。(注:私は踊りませんでした)

 出てどうだったか?という結果を書くと。「良かった」と思う。
いままであまりしゃべったことの無い人ともしゃべったし、性格も少しわかった部分もあり。
そうして、すこし 私のグレ子は改善されたような気がする。

 後から思ったのだが、「こんなに疲れているのに」とか 「そこまで飲みたいとは思わない」とかそんな風に思っていたのだが、楽しい雰囲気で日常生活があまり関係ない人たちと 気楽な時間を過ごすということはストレス発散につながって、次の日の元気に繋がるのかもしれない。
 もしかしたら、日頃いちどきに見ることのない沢山の人の「笑顔」をど〜んと見るだけでもかなりのストレス解消になっているのかもしれない。

何をしゃべったわけでもないのだが、私は、次の日飲みすぎはしていたが、少しだけ元気が出てきたようにも思う。

■つきあいの難しさ

とはいっても、やはり付き合いの難しさというのはあると思う。
たった一度の飲み会でも。いろいろと気づくことがあった。 人のことを面白おかしく脚色してしゃべってしまうひとがいたり。 
 「あのときあなたに 私が悪いと言われた」なんて言われて その人のことを悪いとは思っていなかったので、口にするはずもなく どこでそう取れたのだろうと、めんくらったり。

 やっぱり難しいこともあることは 一段と認識を強めた。

 人との付き合い方というのは人それぞれ千差万別であるし、それ自体も、その人の経験により時間とともに変化してきていることも多いと思う。

 特に難しいのは、こちらのバックボーンや思考パターンをわかってくれていない人やそれを受け入れられない人との付き合いだと思う。
ものの考え方はその人の経験にどうしても左右される。
 ほぼ同じ価値観や考え方を持っている人同士や、もしくは自分とは思考経路がちがうけれどもその人なりの思考経路を理解でき、受け入れられる人については 良好な人間関係が築きやすいとおもう。
ところが、ある程度つきあってみないと バックボーン・思考パターンというのは分からないから困る。

同じ情報を与えられた場合でも、個人個人がする判断は いままでのその人の経験や物事に対する考え方により少しずつ差があって当然だ。同じことを聞いたとしても、その人たち全員が同じ結論に達するとはかぎらない。つまり意見の差が生じる。

 すべての人と共感をもつというのは この世界ありえないと思っている。
うまく行かないときに、必要なところに必要なだけ 自分の考えや状況を濁り無くどうやったらつたえられるかということに尽きるのかもしれない。

■ところで

そういう面をみてしまったことで、私は飲み会について否定的な感想を持ったか?というと
そうではない。
 そういうことに気づいたとしても、これは些細なアラームだと思うし、全体を通してみれば 私のストレス解消にとっては プラスに働いていたと思う。

月例になったとしても 毎回出席できるかどうかは不明だが 今回の私が持った印象自体が、自分の持っていた印象を覆されたことに関しての単なる驚きだったのかもしれないし。

 自分の心とは裏腹にストレスが解消されるということは何が効いたのか不思議だとおもうが、この効果を研究したらひとつのテーマになるくらいの秘密が隠されているかもしれない。
 
 あまり行きたくないな。。と乗り気でないときも、行動してみる価値はあるなあと再認識した。

ピキペキ 2003,4,25
首を曲げると ピキペキと音がするのだ。最近。
それで、ちょと痛いけど、曲げた方がきもちよさげというか治りそうな感じがするので
ついやけになったように 曲げてみたりとか 首をまわしてみたりするのであった。

あ〜。オバはやだやだ。

そういえば、アバラも ペキと音がする。体中ピキペキだらけだ。

 頭が豆腐なので、今日はこれだけ〜。 明日から飛び石連休の開始。うれしいな。

朝は失敗 2003,4,24
 私の通う事務所は、東京といってもほとんど山の方面で、気候が良くなるこの季節は遠足の子供達でにぎわう。
 低年齢の子供達は 昭和記念公園へ。そうして高学年の子供達は 終点まで行って川でバーベキューをしたりするようだ。 
 
 子供達は大はしゃぎ。そういえば、小学校の頃は遠足となると待ち遠しくて嬉しくて落ち着かなかったなあなんて遠い昔のことを思い出しながら眺めている。

 今日は、立川から小さめの子供達が乗ってきて 昭和記念公園で降りていったのでほっとしたのも束の間。入れ替わりに途中から 高学年の子供達が乗り込んできて、あっという間に車両は一杯になった。立っている子も座っている子も うるさいことうるさいこと。
私の隣にギュウギュウに座っては座席を次々に替わっていてひとときも落ち着かない。
まるで巣のなかでギュウギュウ詰に群れているミツバチのようだった。
 
 大王は私のハリポタを楽しみにしている。
ノルマを朝にこなしているのだがなかなか集中できないので、私は気合を入れて集中しようとした。
 右隣はビジネスマン。彼もチラチラと子供をみながら新聞を読んでいたし、向かいの読書中の恰幅の良い男性も時々目があったので、大人は皆同じ思いだったのだろう。

 少し本の中に入り込めた頃に 左に座っている子供の「あれは学校だよね」なんて言っている声が現実に私を引き戻した。
 私の事務所の直前には学校が見える。「もうそろそろだな」と 思ったときに気がついた。
子供が学校と言っていたのは 私の会社のことだったようだ。
 気づいたときにはすでに遅く、電車は駅を出発したところだった。

 ほぼ同じタイミングで右隣のビジネスマンもそわそわしはじめた。 もしや?と思った。
田舎なので、このあたりまで来るビジネスマンの行き先は私と同じことが多い。
 とにかく次の駅で降りて今度は上りに乗り換えて戻る。
やはり、そうだったようだ。彼は私と同じく 上り電車に乗り換えていた。
「失敗したな。。」と思いながらも、隣の人が私と同じことになってしまったことをおもしろく思った。
 
■英語の早期学習

今朝は少し遅くなったので、ほとんどその特集は見られなかったのだが、加熱する英語の早期学習をテレビでとりあげていたようだ。
 そういえば、大王にも数え切れないくらいの教材の勧誘がきた。

その特集が終わり、ゲストにコメントを求めていたところを丁度家を出るときに見た。
ピーター・フランク?さんだか、何ヶ国語も話せる方がコメントしていた。
知り合いも早期教育を受けさせたが無駄だったとのこと。
子供は覚えるのも早いが忘れるのも早い。一番良いのは本を読むことだ。との事だった。

 納得納得。私は小学校就学前にあちこちに転園したのだが、親によると 大阪にいたときは大阪弁をつかいこなしていたそうだ。
 しかし、その話を聞いた小学生のときには 大阪弁の オの字もわからなくなっていた。

 また、小学生の頃に 祖父から英語の教材をもらったことがある。
表面に絵が書いてあり、裏に磁気で声が記録してあるものだ。
 当分面白いので遊んでいた。しかし、結局はこの調子である。

 思うに、apple ,orange,  How are you ? I'm fine thank you.
なんていうところから先へどうつなぐか?というところが重要なのではないかと思う。

■日本語が聞き取れない

最近私は、マイブーム<もう死語かな? が英語のこともあって、英語に割く時間を多く取っている。
 まず、通勤電車の中では ハリポタを読む。時々辞書を引く。
それから、日記をつける暇があるときは日記をつける。(今はチェックをお願いしている方がお忙しいそうでちょっとupが滞っている)
 たまに、先日みつけた外国のフォーラムを覗く。
読み書きそろばんと良く言うが。読み&書きというのは本当に大事だと痛感した。
というのも日記で使った単語は、良く覚えていたりするのだった。

 そうして、今とても不思議な現象の真っ只中に私は居る。

私は、ヒアリングは自分からはしていないのだが、しらずしらずに英語を聞こうとしているようだ。
電車に母子が乗ってきてしゃべっていると、知らないうちに耳がその言葉に反応している。
ああ、おもちゃをさがしているな。とか パパと電話のつもりなんだな。
以前だったらまったく電車の騒音とまぎれて聞こうとしなかったものだ。

 また、困ったことがある。発音が特殊だったり聞き取れない言語は英語として当初聞いてしまうのだ。
先日、電車を待っていたら、騒音の中 前に立っている男性達が何かしゃべっていた。
私には英語のようにも聞こえて 良く耳を澄ますと方言だった。
今朝も テレビで音声を変えただけの日本語を途切れ途切れに聞き、当初英語と取り違えた。

 友人がご夫婦で海外旅行をした時の話を思い出す。ご主人の方が英語が得意だったので、ほとんどご主人に「なんて言ってるの?」と 通訳をまかせていたそうだ。
 あるとき、日本語をしゃべっている人がいて、「なんていってるの?」とご主人に聞いてしまってあきれられたそうだ。 その時は相手の言葉が理解できなかったということ。

今のこの私の状態は、まるで ブラウザの言語の自動判別みたいだなと思う。
皆さんの中で、ネットサーフィンしていたら文字化けしているページに行き着いた経験がある方は多いだろう。 私のページも時々文字化けを起こす。

 これは、ページを表示する際、EUC ,シフトJIS というような文字コードをブラウザが判別し間違えてしまうからだ。
 これを避けるために、META タグというのを書いて ここに書いてある内容は EUCで書いてあるよと指定したり、そのコード体系にしか存在しない文字コードをコメントとして HTMLの頭に埋め込むというテクニックがあるらしい。

私の頭は 現在英語と日本語の区別をするタグを認識する力が不十分ということのようだ。

ちょっとした事件 2003,4,23
■起
 下手な英語でも使ってみようと思ったのは、ほかにもきっかけがあったのだが、リブリーというペットのコミュニティでの出来事も一因だった。
いろいろあって、英語のコミュニティを作りたいという日本人がいたので、「渡りに船」とすぐに賛成した。ところが、その後な〜んも知らせが無い。

■承
 思い起こすと、彼の掲示板で、彼が他の友達を誘っているときに、その友達Aさんが
A「悪い!もう今度のことでアメリカはおしまいだ。だから英語つかってアメリカ人と話す気にならない」と 書いていたので、つい、持ち前のお節介を発揮して、

私「せっかくしゃべれるのにもったいない。私は社会人で、私の会社には中国の人やインドの人が来ているけれども、英語はアメリカ人としゃべるだけのためではなく、彼等とも英語でしゃべりますよ〜。」

などと書いてしまったのであった。単に 社会人の先輩として、英語の必要性を説いて勧誘したつもりだったのだが、当の掲示板の持ち主は

「A,もpon2さんもそういう議論するつもりはなくて〜。気楽にやれればと〜」とどちらかというと私の反応に困惑したような書き込みをしていたのだった。
ふっかけたつもりはなくて、私も気楽に誘ったつもりだったのだが、私は、率直な意見を書いたことを凄く後悔した。

■転

 結局、その他いろいろあって、当初の目論見はうまくいかなかった。

というのも、私と同じように下手な英語の人ばかりではお互いに何が正しいのかわからない状態になるということに 当初私は気づいてなかったのだった。
 唯一私が知っている 英語を母国語にしている人の掲示板に書き込まれている日本人が書いた英語を見ると、私が見てもどう見ても違っている。
でも、どこをどう直せば?といわれると ちょっと??正しい英語には訂正できない。
 これでもお互い言いたい事は伝わっている。
だけど、英語力の無い私は これを見ていると 正しい英語が分からなくなってしまいそう。。。
 と混乱してきたのだ。

 発音の悪い先生にあたってしまった生徒の発音のようになってしまう。

 と、気づいた時に、英語を母国語とする彼女の掲示板だけに 当初のコミュニティを作りたいという日本人が誘いの書き込みをしているのを見かけた。
 やっぱそうだよね。 私は邪魔になることはあったとしてもあなたの勉強にはならないよね。

 てなことで、コミュニティは抜けてしまったのだった。
もっと英語を!

■結 

 先日、ちょっとした興味から外国で運営されているフォーラムを覗いて見た。
素晴らしい毛虫の写真があった。
ある人が 「ゴージャス!」と言っている。
次の人は 「ゴージャス? 何がゴージャスなの?私だったらカメラを落としちゃう!」 
なんて言い、「しっぽが可愛いじゃない?すきだわ。」
と言い、「なんて気持ち悪い毛虫!ぞっとする。」なんて、そりゃもうてんでに。

 最初のゴージャスに対して、何がゴージャスなの? と読み進んだ私は、うわ〜ぃ。どうしよう。と傍目ながらドキドキだったのだ。
 なぜなら、私は日本のメーリングリストの感覚で読んでいたから。
 
 大抵こういう場合、最初に何か言った人の言葉の間反対のことを言ったりしないのが日本流。
特に反対するときは引用や、相手の言葉を繰り返すのはご法度。
相手が激怒する恐れがあるように思う。

  もし、反対のことを言う場合も、「可愛いと思う人もいれば気持ち悪い人もいますわよね。」
 とローマの休日のオードリーヘップバーン姫よろしく当り障りのないことを言うのが普通だが、 このフォーラムはどうなることかと 緊張で読み進んだのだった。

いや。結局なにもそのフォーラムには起こらなかった。皆が正直な自分の意見を次々に書いただけ。

  後から考えてみると、<承>のところでとった私の行動は とても アメリカ人っぽい反応だと思ったりして苦笑した。
 相手と自分が違う考えを持っていると思ったら、自分の考えを言わずには居られない。
 つい 「違う」と思ったら口に出してしまう。
  相手を非難しているのではなくて、自分はこう思うよといいたいだけなのだが。
 日本では、これで相手を怒らせたり困惑させてしまうことが多々ある。
  
 すこしだけ 垣間見た外国の世界は、やはり少し日本とは違っているようだと思った。
 でも、これだけに関して言えば、 日本人の反応よりも私に合っているのかもしれないと思った。思ってもいないことに流れで賛成したふりするよりも正直で私は好きかもしれない。
 
 私が書いた「他の国の人とも英語でしゃべるよ。英語いるんじゃない?」というのは 単なる事実とそれについての私の考えだし、毛虫を好きか嫌いかなんて個人の好みだからどちらが正しいということはないのだから。

大丈夫か? 2003,4,22
大丈夫か?というのは自分に向かって言っている言葉である。

■美容院

昨日の話から続くが、今の美容院を私は気に入っている。
昔はわざわざ銀座や青山まで行き、有名店のカリスマ美容師にカットしてもらっていた。
 数年前に世をにぎわせていたカリスマ美容師さんにも当分担当してもらっていたことがあるし、丁度日曜に、その美容院で見た女性雑誌に乗っている顔写真入り美容師さんの名前に見覚えがあった。 あまりにも見かけが変わっていたのだがこの人も長い間担当をお願いしていた人だ。
(予約さえすれば誰でもカットしてもらえるので、だから?どうっていうの?というといえ別に。。なんですが。)

 結婚した頃は、pon1と私お互い大人同士なので、片方がやりたいことがあるときは単独行動ができる。
 私は、2ヶ月に一回(<一ヶ月に一回でないところがミソ)青山に髪を切りに行って単独でその辺をウインドウショッピングしたり、青山を歩くオシャレな人たちを観察したり、もしくは夕方にpon1と待ち合わせてどこかに食事に行ったりということをした。
私のお気に入りは 表参道駅近辺のスパイラルビルから 根津美術館の方の少し落ち着いた方面だった。

私が通っていた有名店は、まず待ち時間がものすごく長かった。店に予約の時間に行っても
ずっと別室で待つ。次にやっとシャンプー そうしてそこでまた待つ。
 そうして、美容師は掛け持ちなので、さささっとカットして後はサブの人が巻いたりなんだり、仕上がりを美容師さんがチェックしてくれるのを待つ というのがだいたいの流れなのだが 午後すぐに行って終わりが7時ということもあった。(私の髪がパーマがかかりにくく量が多いということも原因の一つだが)

 そのうちに、雑誌紹介が頻繁になるにつれその有名店の予約がとれなくなった。
電話を入れると 「来月の予約受け付けは終了しました。翌々月の予約は ○日から○日に行います」なんていわれてしまうのだ。電話も繋がらない。

 いくらなんでもそこまで髪にこだわるほどのことはない。
こだわっても元が同じなんだから大して変わらない。
私はもっと近場で。。と数件の美容院を点々とすることになる。

■美容院探し

 近場の美容院に行ってみた。すると、美容師は偉そうに「あ、この髪自分で切りましたね(苦笑)」なんて言う。 
 後から気づいたのだが、新しいお客に対してこの言葉はマニュアルにあるのかもしれない。
 自分で切った人は 「やっぱり 美容師さんが見るとわかるのね」とその美容師のプロ度合いを確認するかもしれないし、そうでなくても 「前にいっていた美容院の方が 下手なんだわ」なんて思うことがありそうだ。

 しかし、私は実はこんな田舎の美容院ではなくて、青山の有名店でのカリスマカットだったのだからして あまり感動はない。

 いろいろ薀蓄を聞かされながら 出来上がったパーマはまさにぐるぐる。。
 そうして少しすると その頃の髪の根元からプチプチ切れてくるのだ。
 薀蓄たれるまえに、腕をみがいてくれ〜。<とココロで泣いた。
(そうなのだ、かかりにくいので下手なところがやるとこうなるのだ。ちなみに青山の店では一回もそういうことはなかった)
 
 そんなところを ふらふらとまわって、みつけたのが今のところ。
 カット自体は カリスマ美容師のように 「切り方からして見せる」カットではないが、出来上がりは満足しているし、当日の予約でok.近いし、親子まとめて行けるし、時間も短いときているので当分この美容院に続けて行くことになると思う。
 腕は青山の美容院に迫っていると思うし、こちらは自分がゆったりとできるのである。

■前置きはさておいて

随分長い前置きだったが、その今の美容院から帰って、私は「今日は寒かったよねえ。美容院のドアがずっと大きく開けっ放しで風が入ってくるので、寒くて喉が痛くなっちゃった。
 でも、きっと誰かが暑かったから開けたのだと思って言えなかった。」とpon1に言った。

すると、それを聞いていた大王が 「あれは あっくんとママがはいったときに ママが開けたんだよ」とノタマウではないか。。滝汗(;-_-;)

 実は私には記憶がない。
入った時に、20分も予約より早くつきすぎて(大王の準備時間をみこしてたら早くつきすぎた)混んでいたので、「しまったなあ」と思ったことと、大王の上着を脱がせてカードを出してと準備したことや、その店にいる犬のことなどは覚えているのだが、ドアについてはまったく覚えが無い。

 しかし、こういうときは 大抵大王が言った通りのことを私がしていることが多い。

 もし、私が開けっ放していて、お店の中の人たち皆が寒いと思っていたのだったらどうしよう。。
と思ったのだが、もう後の祭りだ。この件はココロの平穏のために忘れることにしてしまった。

■ラセンイ
 その美容院の帰りに、例の激安園芸店へ寄った。会社の机の上の植物の調子が悪くて(たぶん光量不足)それに替わる植物を。。と思っていたところにラセンイに目がとまった。
 以前 埼玉あたりのマニアック園芸店で見たラセンイは 斑が無かったのだが、このラセンイには斑がある。そうして、 ユンカス スパイラリス 'イエローライン' Juncus Spiralis 'Yellow line' と立派なラベルがついている。
 寒さで帰宅を急いでいた私は手っ取り早くラベルの裏を見ると
 「置き場所:直射日光に弱い」と書いてある。 あれ?意外。斑入りだからかな。。でも、会社にピッタリだな。。なんておもいながら
 背の高い鉢入りで200円は安いな。とこれを購入した。

 さて、それを今日会社にもってきたのだが、ラベルをもう一度見て驚いた。
 「置き場所:直射日光に近い」だった。 (を〜い。(TT))

 なにをどう思って 弱と近をみまちがったのかは不明だが、めちゃくちゃな日本語を書きなぐっている私が言えることではないかもしれないが、この「直射日光に近い」っていうのは日本語としてアリなのだろうか。
 よく見ると英語が併記してあった。- likes direct sunlight.
これって。もしかしてどちらかとういうと「直射日光を好む」の方のlikeなんじゃないだろうか。。。
滝涙 (TT).

日本語をみまちがってかつ英語を読まなかった私が悪い。
今、私は薄暗いオフィスでラセンイをどうするか少し悩んでいる。

Alone again 2003,4,21
土曜日は、保育園の催しなどがあったのだが、体調が悪く参加を見合わせた。
すると、昼過ぎに電話がかかってきた。
同じクラスの一番親しくしているお母さんからだった。
「会の後に、盛り上がって皆で長話をした。クラスではじめて 飲み会を開くことにしたからどう?。」
と誘ってくださったのだ。
私は自分から会を開くということはほとんど無いので、こうやって誘っていただけるのはとてもありがたい。
 少なくとも10人以上集るとのこと。最初はせっかくだけどお断りしようかと思ったのだが、皆さん長い間顔を知っていてもきちんと話しをしたこともなかったので、体調がよければ行って見る事にしようかと思い直した。

 「クラスのお母さんで一番トシなのは誰かっていう話しになってね。○ちゃんのお母さんがワタシじゃないかな?なんていうから。pon2さんじゃない?っていったら、みんな ああpon2さんねって言ってたわよ」
なんていわれて、「え”!((((((^_^;) 本人不在のところで、トシをばらす?」 とココロの中で苦笑。
そんなに胸を張っていえるようなトシではないので、あまり言わないようにしていたのだが、隠していたわけではないので、それでドウコウということはないのだが。

 私はあまり人の年が気にならない。
見た感じや話しの内容で「ああ、この人は上かな」とか「下かな」くらいで、あまり人に年を聞くという習慣がない。話題になれば聞くが、聞いても、印象に残るもの以外忘れていることも多い。
(数字苦手だし。。((((((^_^;))

■年齢
 電話を切ってから、一番年上ってばらしたんだったら、ウソでも「え?若く見えるねって言ってたよ」って言ってくれてもいいのに 「ああ、pon2さんね」っていう反応は 「なるほど、一番年上っぽいわ」という感じじゃない〜?。なんて一人突っ込みをしたりした。(冗談です。彼女が私に気を使う必要はないです。(・_*)\ペチ) 
そうそう、私は今のクラスで一番年下でないことは知っているのだが、本当に私が一番年上かどうかは知らないのです。まあ、たぶん一番上くらいだろうなとはおもっていましたが。。

 そういえば、数年前に外注をお願いした人が、同じグループの後輩と一緒に飲みに行ったときにすごい剣幕で言ったそうだ。「pon2さんって 何歳なんですかっ!」で後輩は「○歳だよ」と答えたとのこと。 その後、彼は あ、そうですか。と 剣幕がつづかなかったそうだ。
 たしか、私は契約時の資料で彼の年齢を知っていたのだが、世の中には若く見えることで悩んでいらっしゃる方もあるし、彼もいつも若く見られて悔しい思いをしていた人なのかもしれない。
 私の年が上と分かったことで、彼はその後雰囲気的に近くなったように思う。<世の中そんなものかも。

そんな風に年齢っていうのは、分かっていた方がスムーズなこともあるようだ。
 私は、ご本人が自分から言わない年は ご本人にも他人にもあまり聞かないし、人にも自分が知っている他人の年を必要がないかぎり言わないのだが、特に年齢を尺度のひとつにしている方には、お会いした当初に、年齢を直接お聞きした方が失礼はないのかもしれない。
 とはいっても、年齢を尺度にしているかどうかっていうのが、初対面で分かれば苦労はない。また、自分があまり言う習慣がないので たぶん今後も人にも聞かないような気はする。

■Alone again

ところで、昨日は大王を連れて美容院へ行った。そこで、懐かしいと思う音楽がかかった。
これを書いてしまうとここを読まれた方も私の{年齢の想像がつく}かと思われるが、Alone again という歌だ。後から ギルバート オ サリバンという人の歌だと検索した。

 英語が嫌いでなくなったとはいえ、英語力がついたわけではないので、歌の中でちゃんと聞き取れるのは、題名の Alone again だけ。
 でも、この題名から受ける悲観的な印象とはあまり似つかわしくない 優しくて淡々としたメロディはなぜか昔も今も心にす〜っと入ってくる。

 英語の曲の好き嫌いは、私はほとんどメロディで決めているので注意しなければならない。
というのも これも昔の曲だが Last Christmas という WHAM というグループが歌っていた歌がある。
クリスマスの鈴の音を想像させるテンポの歌でどんな歌詞かも気にせずに聞いていたのだが。。
 Last Christmas - I gave you my heart - But the very next day you gave it away- This year - To save me from tears -I'll give it to someone special
ありゃ〜。これは 有名な「キットキミハコナイ〜 ヒトリキリノクリスマスイブ〜」と同じタイプの歌だったのね〜。

alone again については 歌詞を検索したところ、私が想像していたのと、さほど違わない内容のような気もするのだが、どうも私は詩心(?)がなく、詩が上手く鑑賞できない。その詩が苦手な「英語」という言語で書いてある。
ついでに検索したところ、販売されているものの翻訳がまったく違っているなんて書いてある掲示板にヒットしたりして、「プロの訳が違うといわれるような物に対しては、こりゃ私には無理だわ」なんて思っているので内容については書けません。<スミマセン。``r(^^;)ポリポリ
 
 とにかく、昨日髪にロットを巻いて貰いながら、その「歌」でなく「曲」を聴いていろいろ思い出した。
私は 望んで親元を離れて一人でこちらに出てきて、自由を得ると同時にやはり一人暮らしの寂しさも味わった。
結婚したい。しよう!と思う相手も長い間いなかったので、一生一人で暮らすこともあるだろうと一人を身近に感じていた。
一人というのも、実はとても快適な生活である。
 一人きりの時間を一生のうちに持つ機会があったということは、私にはプラスだったと思う。
 
私が感じている alone again naturaly という言葉は、「人間は所詮一人さ」という否定的な感情ではなく、肯定的な感情だと思うのだが、うまく言葉に表せない。
 どうにか書いてみると、私には大好きで大切な人たちがいるけれども、その人たちは自分とは 別個の人間であるということをいつも忘れないでいたい。ということだろうか。
上手く書けてないな。。。。

新緑 2003,4,18
桜もほぼ散って、八重桜もかなり葉をのばし、木々の緑も濃くなってきた。
「新緑」と呼ぶことのできる季節だろうか。
 外は汗ばむほどの陽気で、子供達はもう半袖だ。

■理由

フレックスの規約が変わりました。
私はフレックスを利用していませんが、どうもこの理由が理解できなくて困っています。

フレックスのコアタイムが 始業時間からお昼休みまでの間になったのです。
そうして、お昼休み以降は フレックスを適用して良いとのこと。

その理由が「顧客満足のため」ということだったのです。
 「なるほど!本当にお客さんが満足するためには、そうなるべきだ!」と思われましたか?
私などは、頭の血のめぐりがわるいからかこの理由がどうもしっくりきません。

まず、私の仕事は システムエンジニアです。
システムを設計して提供しますが、その提供には運用の時間を把握し、通常は問合せが発生するような設計はしません。
 もちろん。想定していないバグが発生するようなことは ないように心がけますし、それによって業務が止まってしまうような質の悪いソフトウエアは提供しないように実行しています。

 つまり、朝一番出社した途端に ユーザーさんから 「こんな風にシステムエラーなんだけど
どうしていいか分からないよ」なんていう 問合せは 今まで皆無です。

 システムの利用もそうです。使う人がシステムを見ただけで使用方法がわかるように作るのが腕の見せ所です。
 少し自慢になりますが、私達が提供しているシステムは面倒な使用手引きなどほとんどありません。始めて使われるユーザーさんも問い合わせなく利用できているのです。

つまり、朝一番の早い時間から 待機をする必要があるということは、なぜなんだろう?
という疑問が湧くわけです。
 
 次に、顧客が一番利用している時間帯は 15時16時が多いようです。
問合せが発生するのであれば、昼食後の方が頻度としては多いはず。
なぜ、午前中はかならず出社、そうして一番利用されている 15時16時に 帰宅可能なフレックスが顧客満足につながるのか、どう考えても理解できないのです。

お客様が問合せしたいとき、いつでも相手がいるというのはたしかに問合せできないよりも満足度は高いかもしれませんが、私が使う立場だったら、

1)24時間自分の都合にあわせていつでもシステムを利用可能
2)問合せしなくても システムの使い勝手はよくわかる
3)障害がない

というのが一番満足します。
本当にお客様が24時間体制のサポートを望んでいらして、それが必要だったら、3交代などにして対応する必要があると思います。

本来、質の良いシステムを提供するべきで、障害の対応は障害があってこそ発生する。
障害の発生は顧客の満足度を下げてしまう。
 まずは、努力するのは障害のないシステム導入だ。
顧客満足を目標に、力の入れどころがちがっていたら、それを教えてあげた方が良いだろう。
と思ったりするわけです。

■似ている

同じようなこと。最近あったなあ〜。と思い起こすと、アメリカのイラク攻撃。
どうも、世論は攻撃反対にながれつつあったのに、あっという間に 「イラクが大量破壊兵器を持っているかもしれないから」「イラクの人々を解放するために」という理由で開戦されたことがよみがえります。

<A>「本当は、フレックスはやりたくないんじゃない?だけど ナシっていうと文句が出そうだから誰もつかいたくないような規約に変えたんじゃない? だって午後からどうしても必要だったら半休とれるよ。」

<B>「就職対策じゃないかな? 就職するときに フレックス無しっていうと人気が下がりそうだよね。だけど就職するときに、コアタイムがどれくらいなんて調べる人あまりいないとおもうし」

<C>「つまり、本当はやりたくないけど、もっともらしい理由をつけたかったってこと?
  もう少し社員が納得できるような理由を練ってほしかったね。

  たとえば、
  バブルの頃とは変わり、社会情勢もご存知のように厳しくなってまいりました。
  大量消費・大量生産の時代は終わりを告げているという結論には容易に達することが出来ます。
  また、地球の限られた資源を考えると エネルギーの浪費を押さえ、低い消費で高価値のものを創造することがこれからの企業の使命と思われます。
  会社の消費エネルギーを考えたときに、まず 働く方々の時間帯が合わないというのは大変なエネルギーの無駄につながります。
 ものの価値は、それに要した単純労働時間と比例しません。
これからは、短い労働時間で最大限に価値ある創造ができるように。
また、会社全体の消費を考えたときに、残業などで一人のために事務所の空調や、照明をつけるということのないように、効率の良い労働を推進していくべきだと思っています。
  社員の皆様にはぜひ 定時内の労働で最大の価値をつくりだせるようにご協力いただきたい。
  会社としては、それによってぜひ成果を上げ社員の皆様への給与などへの反映を行って 豊かな時間と豊かな生活の提供を目指したいと思います。

 なんてどうかなあ。。(笑)

<D>「いまひとつ、アピールが弱いかな。もう一歩!。
 しかし、おまえが、考えつくくらいのことを、上の人が考えつかないわけないよ。(笑)
火をふいたプロジェクトのことが気になってしまって 木を見て森を見ずだと心配だなあ。。」

<C>「おまえ〜あいかわらず。失礼なやつだなあ〜。ま、そこがいいところだけどさ」(笑)

■上は虚構の話ですが。

 本当にそれで、顧客満足度をあげたいと思っているのだったら、とても心配。 
 怪我している場所がわからず、とりあえず 目に付いたところを応急処置しているようなことにならないように。

休みボケ? 2003,4,17
今朝は起きたのは通常どおりだったのだが、ボケボケとしているうちに時間を過ごしてしまっていて、慌ててしまった。
 途中乗り換えの2駅で全力疾走して、どうにかこうにかいつもの時間に到着した。

■SARS
SARSの原因がコロナウイルスの変種だということ。コロナウイルスとは通常人間がひく風邪の原因菌のひとつだそうだ。

 ここ数年、トシのせいか風邪をひいても辛いことが多かったので、pon1に、「昔の人が現代にタイムスリップしたとしたら、罹患しただけで死んでしまうようなウィルスもあるんじゃないだろうか。菌なんて少しずつ変異しているわけだから、それを一挙にとびこえて遭遇してしまうと免疫がなくて、大変じゃないかなあ。」なんて言っていたのだが、単なる空想ではないかもしれない。
 昔の人ではなくて現代の人も大変な状態になってしまう菌があるわけだから。
とりあえず、みつけたページ
http://www.jata-net.or.jp/sars/today/0402.htm
http://www.iijnet.or.jp/KUSURI/kazen_03.htm

■ハリーポッター
眠りながら、やっと半分くらい読んだところだ。
もうすぐDVDが出てしまう。。丁度やっと怪しい事件が起こり始めた頃で、ハリーにしか聞こえない無気味な声が聞こえたり、秘密の部屋の存在が匂ったり、そうして、マンドラゴラが関係するある事件がおきたりというところに来ている。 もうひとふんばり読もう。

 ハリーポッターはまだ1巻を読んで2巻も半ばまでしか読んでないが、とても良く練ってある本だと思う。1巻を読んだときに思ったのだが、巻の始めにでてくる平和で些細な出来事も、実は巻の後ろの方になってくると、ああ、そうだったのかという伏線になっていたりする。
 
 特に私のように、英語が得意でないものが読む場合は、事件のない平和で散漫な日常を読むのは大変退屈なのだが、これが後になって、「なんと!そうだったのか!」と思う展開に関わってくることも多く、それがある意味楽しみになっている。ここのところでやっと 「ドキドキ」という次を読みたいという流れになってきた。

 ところで、この秘密の部屋を半分読んだところで、この本の今回のテーマのひとつは「差別」なのだと思って読んでいる。イギリスというところは、いまだに階級制度が根付いているところだということを数年前に聞いたことがる。
検索して出てきたものがここ。IIあたりからが現代について。
http://classes.web.waseda.ac.jp/z-muranolt01/KE0103.htm

たとえば、話しが少しそれるが、私の大好きな映画、ハワーズエンドでもその階級がはっきりとわかる。別荘ハワーズエンドを所有しているウィルコックスさんは上流階級。 狭い賃貸のアパートメントで イングリッシュティを飲みながら、文化、芸能について語り合うシュレーゲル家は中流階級。線路の下に住んでいて、傘をまちがったことから シュレーゲル家の人と知り合いになる若者は たぶん下流階級だということだと思う。
 言葉の訛りや 部屋の中の様子などで、その違いが分かるように思った。

さて、話しを元に戻そう。あ、先に断っておく必要があった。
=======
私は英語が不得手なので、きちんと理解できていないその知識で書いている。
間違っていることも多いと思うので、これをまるっきり信じないで下さい。
=======
もともと、ハリーたち魔法の世界は、イギリス以上に階級差別の大きいところのように思う。
 今回の秘密の部屋では、当初から Mudbloods とか Squibという単語が出てくる。
Mudbloodsは、魔法使い血筋でなく、Maggleの血筋から産まれた魔法使いのこと。
Squibは魔法使いの家に生まれながらも、魔法の力を持たなかった人の事とのこと。
つまり、純血種の誇り高い魔法使いの家柄と、普通の人間の血が混じった家柄との差別。
そうして、魔法使いとして産まれても 上手く魔法の使えない人達への差別。 
 (また、1巻から魔法使い達は 普通の人間を muggleと呼んで、能力を持たないものたちをバカにしているものあるという設定。)

ハーグリッドという大男は、(ハリーたちの良き理解者であり、心のよりどころだと思う)訛りもかなりある。 tar yah -> to you  たぶん、イギリスで言う労働者階級であり、教養もあまりないような人を想定しているのだろう。

■階級制度のジレンマ
階級というものは、一部の人たちの自己のアイデンティティを確立するために他の人たちと区別するために用いられるものだと思う。
 
 血筋、財産、職業、しかし、こういう区分け自体は、人間そのものの価値にはまったく関係のない尺度でしかないと思う。身近な例では、性別・年齢・学歴・容貌などもはいるだろうか。
そうは言いながらも、通常人というのは、自分が自分であるための誇りというのをどこかに持っているものではないかと思う。私もたぶん、私なりの尺度をつくっていることがあると思う。
また、その誇りをくすぐるのがこの階級制度だと思うのだ。

 ハワーズエンドを見たときに、こんなに階級を書き分けているのにそんなに嫌な思いがしなかったのはなぜか。もちろん、私からするとイギリスの階級社会というのは他人事であるからというのもあるだろうが、よくありがちな 「階級が下のものは教養もない」というプロトタイプ的な描かれかたをされていないところが好ましかったのかもしれない。

また、ハリーポッターに関して言えば、たぶん、子供達が社会に出て行って出会うであろういろいろな差別に対して、ドラコの卑劣な言動、妬みの言動について、自分がハリーとして読むということで、何らかの意識が芽生えてくれることを期待していたりする。

 たとえば、先日我が家では 「ドラゴンボール」を見ていた。
天下一武闘会で、鶴仙人が卑劣な行為をする場面があったが、私は「なんてやつだ」と怒りまくった。 子供っぽい? でも、ココロの中ではこれが大王に対して大切なことだと思う。
 ある意味、世の中には、「卑劣なことをしても勝つことが大切」という価値観を持った人もいると思う。しかし、我が家の価値観は正々堂々だ!と これで伝えられると思うのであった。

■今日も戦争について
 今朝の朝日新聞にも出ていたが、今回の戦争でアメリカの兵士となっているのは、貧困層や移民一世という人たちが中心だそうだ。
そういう人たちを中心に募集しているのではないが、兵士になることで、そういう人たちにうまみとなる見返りが準備されているのである。
アメリカのこう言うところは、本当に悪い意味での「資本主義」であり、黒人差別時代からの差別が根強く今も残っている社会だと思う。
 「自分は戦争にはいかない。貧困な人たちが行く」という他人事というか そういう人たちが差別され、「自分が望んで納得して行っているのだからいいんじゃない?」と 善人のふりをして「コマ」として利用されているような気がして、こういう実体は私には容認しがたいのであった。

おばさんとアニヤ・ハインドマーチ 2003,4,15
今日は身の回りのネタと書いたのだが、ひとことだけ。
略奪の中には、アメリカ兵が手土産としてちょっとした金細工などを持ち帰るという姿もあるとテレビで報道されていた。
実際、そういう小物については、身の回りのものと一緒にされてしまうと持ち出しチェックは困難だと思う。 
 こう言うときに、国際的な組織でなんとかしなければならないと思うのだが、事実上軍事力を持った自分のことしか考えていない暴れん坊には 国際的組織では太刀打ちできないということが 今回のことで明らかになったようにも見える。
 武力に頼る人間にはものの道理などは関係なく、効力を奏するのは武力だけということか。

アメリカは、平和と自由という名目をふりかざして、結局は武力で全世界を自分たちの掌中に収めようとしているようにも見えるが、彼等は他の侵略行為とどのように違うと説明してくれるのだろう。 いままで納得のいく説明を聞いたことが無い。

いままで「持っているはずの」武器が使われなかったことを見ると、私はイラクは持っていなかったのではないかと思うのであるが。すべてアメリカの疑心暗鬼が生んだことだったら彼等はどう説明するのだろう。
 実際、もし、武器の存在をアメリカがつかんでいたら、動かぬ証拠をまず一番に晒すと思うのだが。
 イラクは持っていても、大量破壊兵器を使わなかったのだとすると、劣化ウラン弾をガンガン他の国に落としたり爆弾を落として国全体を破壊した国よりもずっと理性があるようにも見えてもおかしくない。

■さて、本題。

自分のことを「おばさん」と認めてしまったら一気におばさんになってしまうとか言うが、私はすっかり真のおばさんになってきた。
 ある意味ココロの中で「おばさんだからイイワヨネ」なんて思いながら、何かをしてしまうからではないだろうか。

 たとえば、「おばさんだからイイワヨネ」で スッピンでジャージ姿で買い物に行ったり。
 「おばさんだから イイワヨネ」で遠慮なく 電車で空席に座らせていただいたり。
つまり「恥じらいをなくす」ということだろうか。

体型的にも、ちょっとお肉がつきやすくなってきて、まったく体重が落ちない。
(努力もしないんだからしょうがないのだが。。)

アミノ酸やクエン酸がダイエットなどに良いと聞いたので、ためしに、クエン酸入りアミノ酸を飲んでみたりしたのだが、2,3月というのは なぜか 巷にチョコレートが 舞っている月で、見ると食べたくなってしまい、ぜんぜん効果はみえず。
 それどころか、結局ちょっと太ってしまうという結果になってしまった。

■流行

そういえば、若者向けの雑誌をぜんぜん読まなくなったので、流行にも疎くなってきた。
昨年来、トートバッグに 犬などの写真がついている リボンのマークがついたメーカーのものを持っている女性が多いことに気づいた。
 たぶん、はやっていたのだろう。

検索して見つけた。
ANYA HINDMARCH(アニヤ・ハインドマーチ)のトートのようだ。
どうやらテレビドラマのヒロインが持っていて話題になったようだ。
http://www.televito.com/d_fashion/index_4.html
http://www.anya-hindmarch.jp/
http://www.anyahindmarch.com/beabag/index.htm

画像さがしたのだが、オバサンがこういうところに書こうとするくらいになるとすでに流行も下火なのかあまり見つからない。。
上のページを見ると、どうやら自分の持ち込み写真でバッグが作れるようだ。
(オバサンはこの値段をみて、うは〜お高い!と思うが、若者はきっと平気だとおもう)

ところで、そのトートバッグの柄に お尻の大きなオバサンたち 多分2人くらいが低い(いまにもつぶれてしまいそうな)椅子に座っている横に子犬を配置したものを持っている人がいた。

バッグにしろ洋服にしろ、そのもの自体が気に入るということもあるのだが、もって歩くからには自分がかっこ悪く見えるよりは 少しでもカッコよく見えたほうが良いと思っている。
 ところが、この柄は難しいだろうと思った。

私が持ったらしゃれにならない。 それこそ オバ×3(<ああオヤジっぽい)だ。
しゃれにならないのを知っていながら私が持つと、オバサンどころではなく オバカサンになってしまうかもしれない。

かといって、抜群のスタイルの女性がこの鞄を持ったらどうなるだろう。
なんだかイヤミである。 笑えない。
 オバサンをばかにしてるのか〜ぁ。と私のような人に インネンつけられたらどうするんだろう。
(注。私は決して 人にインネンをつけたことはありません)

■オバサン脱却

オバサンを脱却したいとは思うのだが、オバサンとはあまり向上心がなく、脱却するための努力をしない人をさすと思う。(努力できる人は真のオバサンではなく、れっきとした若者デス) つまり、オバサンの私は努力したくない。

 努力せずに「ああ、やせたい」とか「ああ、二の腕どうにかなんないかな」なんて思うだけなので、やせるわけが無いのであった。
 来年は脱却したいな〜。大王入学式だし。着る服ないっていう切実な問題が。。。

ハムラビ法典とエゴ 2003,4,14
今日は身の回りのことを書こうと思っていたのに、ニュース聞いちゃったから。
はじめてこのページにいらしたかたは、私のことを 「過激な人間」だと思われるかもしれないな。
明日は身の回りのことを書こう。

■ハムラビ法典

バクダットでは、暴徒と化した人たちが略奪行為を行っているとか。
ハムラビ法典の一部も盗まれたという報道もあった。(注1)

 人というのがいかに「エゴ」なものかというものを見せ付けられたような気がした。
これまで抑圧されていた人たちが、この期に乗じて、いままでのツケを返してもらおうということなのか。

朝のテレビの聞きかじりからあので、間違っているかもしれないが、小泉内閣の支持率がここに来てあがり、攻撃されれば北朝鮮に対して武力行使賛成もテレビ局の電話調査では半数以上になったとのこと。(憲法9条の解釈問題になっちゃうのかな(TT))

 ハムラビ法典ではないが、「目には目を」なのだろうか。
私の中では、もし、私が殺されたとしても 相手を殺すことで報復して欲しくないと思うのだがそれは本当に起こった出来事ではないからなのだろうか。平和ボケなのだろうか。

 実際、ヴィーナスハートという女性国会議員メルマガ(http://www.rosetta.jp/)
 の読者からの今回の武力行使についての意見の掲載によると、「アメリカに反対したら、北朝鮮からだれに守ってもらうんだ?」という意見があり、私の考えとはまったく異なる考えに驚いた。
 間違っていることは間違っている。正しいことは正しい。
それとそれぞれの国が持っている軍事力とか、経済力とかは 無関係であるはずだ。
私はそう思っている。

私からみると、事そのもののの是非を問わずに、守ってもらうことを期待して武力行使を支持した人のその考えも自分可愛さのあまりの「エゴ」に見えてしまうのだが、それは私が間違っているのだろうか。そういう人は もし、北朝鮮がアメリカ以上の力を持っていた場合はどういう選択をするのだろう。

 ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」の裁き方について、あの時代から法律があったことはほとんどの人は素晴らしいと感じるだろうが、この法の「目には目を」云々については、現在も素晴らしいと思う人はそうはいないのではないかと思う。(注2)

 今回の武力行使については 「やられそうだから 先にやってやった」ということ。
北朝鮮の脅威に関しても 「やられるまえに やってくれ」ということだということに武力行使を支持している人たちは、気づいているのだろうか。
 今回のこの武力行使は、アメリカが自分を正当化しながら行使した「エゴ」でしかないように思う。
 
 現在では 「先に手を出した方が悪い」という暗黙の了解がある。
これは 子供の世界でもそうだし、戦争もそうだと思う。
 
 日本が 「やられるまえに やってやれ」と思うということは 相手も 「やられるまえに やってやろう」と思うのだ。

 きちんと、今回のことについて、「いくら ガキ大将でも、先に手を出した方が悪い」と クラスの皆が裁かないと、「やったもの勝ち」「力のあるもの勝ち」を暗黙のうちに認めたことになると思うのだが、皆さんはどう思われるだろう。

 「やったもの勝ち」「力のあるもの勝ち」の世の中は、次々に 「やったもの勝ち」を狙う人たちが出てくる。
 そういう無法を防ぐための 「目には目を、歯には歯を」がハムラビ法典だったのだろう。

武力行使を支持したり、結果オーライとしてしまうことは、無法を認めることになると思うのだが、皆さんはどう思うだろう。

★(注1)たしか、私は以前ハムラビ法典を美術館で見た記憶がある。あれはルーブルから来たものだそうだ。
  
★(注2)実際は、「目には目を。。。」の記載が一人歩きしてしまったらしく、本来はもう少し配慮のある法律だったらしい。
 http://homepage1.nifty.com/manyapage/parque/akuma/akuma16.htm
検索したら、トップにこんなページがでてきた

喪の作業 2003,4,11
ここのところ JMMからの褌をお借りすることが多いが、
[JMM 213Th] パリは燃えているか?;欧州メディアレポートという記事で、
本文とは関係のない以下の記載にくぎ付けになった。

=====================================
精神分析学者のフロイトは、親しい人間の死に際し、生き残った人間が苦痛と追想の
うちに陥るメランコリーから脱却しようとして行う努力のことを「喪の作業
Trauerar-beit」と呼んだ。ひどく乱暴な言い方になるが、あえて単純化して言えば、この喪の
作業がもたらす解決とは、「死者を殺す」という出口である。もっと平たく言えば、
自分の心の中にある、死んでしまった人へのあまりに近しい想いを一旦断ち切るとい
う出口である。
=====================================

昨年ほぼ一年引っかかって、ようやく自分の中で片付きはじめたことがある。
それは、人の生死にかかわることではなかったが、私の今まで持っていた「ヒト」全体への信頼感というものを根底からつき崩すような、私にとっては大事件であった。

ある意味あの事件後の私の心の動きは、「ヒト」に対する無防備な信頼感という、
{失った}ものに対して、人間が一様に同じ道をたどりがちな心理状態だったのかもしれないと思った。

今考えると 私にとってその出来事はあまりにもショックだった。
だから、その人を 自分の中で 「死者を殺す」(良くない言葉だがまさにそう)必要があったのだ。
 違っていることは、上の記載の場合は、「ある個人に対するあまりに近しい想いを一度断ち切るという出口」であるのに対して、私の場合は、相手がほとんど親しくない、個人的なやりとりもほとんど無い人だったので、私のなかでは「ヒト一般」(=善意の集団)ととらえていただったことだ。
だから、私の中では ヒト一般に対する信頼感を回復するためのプロセスだったと思う。

とにかく、私にとって、あの出来事は良い意味で教訓になったと思っている。

心理学の話 (脱毛症から対象喪失について?)
http://www.angel.ne.jp/~cassiel/haarausfall/sinri.htm

思い起こすと、この一覧表にあるように、私は、この一年の間に ショック・否認・悲しみ・怒り・不安 などという感情の移ろいのすべてを経験してきた。そうして やっと、今は 適応し再建しつつある時だと思う。
 それは、同じヒトから以前なら憂鬱になるような対応を先日受けたのだが、今度はショックも以前ほどではなかったことから「ああ、消化できているな。。」と確認できた。

 もうひとつ アルフォンス・デーケン の悲嘆のプロセス にも似たような感情の移り変わりがかかれているようだ。
http://www.cmh.ne.jp/m-health/death.html#anchor636325

 ここを見て、私がほぼ一年通ってきた感情の動きをおさらいできる。

特に、怒りや、否認のプロセスを通っているときは、それを聞いてもらいながら、私の性格は悪い性格なのだろうか?自分を正当化したいだけなのではないだろうか? という葛藤も実はあった。

しかし、これを見る限りでは、そういう思いは出したいだけ出してしまった方が良いようだ。
そうして、それをしないと無理がでるようでもある。
そういうことを知り、安堵した。
 自分が普通に戻るために必要なプロセスだったわけだ。
そのとき、そのままの私の感情を受け止めてくれた友達や家族がいたからこそ今の私があるのだと思う。 

 本当にどうもありがとう。

画像はイフェイオン ウィズレーブルー

それでも地球は 2003,4,10
昨晩テレビで、米英軍がバグダッドを制圧し、フセインの銅像を喜んで打ち壊す人々の映像を見た。
皆がバグダッド制圧を喜んでいるように見えて、え?本当に戦争してでもフセインを倒してほしかったんだ。。。意外。。という気持ちと、「結果オーライなの?でも、でも、アメリカの取った行動は間違っている。」という思いが湧いた。
 気持ち的には 地動説を認めざるを得なかった ガリレオの心境といったら大袈裟だけど。

今朝、日本テレビの特派員は以下のようにバグダットから伝えていた。
フセイン銅像を倒す瞬間については、バグダッド市内にはもっと多くの人が住んでいるのだが、200人程度集っていた。そのうち半数はメディアのようだった。
(あと半数の中にはアメリカ軍の人たちが入っており、実際は像を倒すのに成功したのは軍だったということ。当初星条旗を掲げようとしたが、以前植民地を思わせるというクレームがあがったのを覚えていたのか、それを取り去ったことも伝えられた)
 市内には自分達の政府(うろおぼえ)がなくなってしまったと泣いている人たちもいたとのこと。
これを聞いて、やっと納得した。こちらだったら納得できる。

ニューヨークでは道行く人にインタビューをしていた。
「アメリカが 単独でああいった行動に出たことは間違っていると思う」と 女性が答えていた。

本当のことは何だろう。情報が発信されているときに、それを丸まま信じるのではなく、自分で検証する努力が必要だと思うし、メディアの今回のこの報道姿勢はとても好感が持てた。

■成績

知り合いの子供さん(小学生)は 3学期の成績に期待していたそうである。
「いつもより良く出来た。きっと成績が良いだろうと思う」そういって通知表を楽しみにしていたそうだ。
ところが蓋をあけてみると、成績は良くなかった。子供さんは随分落胆したそうだ。

 それを聞いた私は 「今の小学校の成績は 絶対評価だったっけ?」などと検索してみた。
びっくり。最近は成績をつけるパソコンソフトも販売されているようだ。

たしかに、評価をする立場からすると子供たちそれぞれのバラエティに富んだ才能に重みを加えて 一律得点で示すのは難しかろう。
 人間なので、どうしても個人感情や思い込みが避けられないときもあるだろう。
どんなに平等な人でも、勘違いすることもあるだろう。
そういった面ではパソコンに委ねるのはある意味平等なのかもしれない。

 でも、仮にだが、成績まですべてをパソコンソフトでつけられてはたまらない。
定量的に表せないものの評価がどんどんと抜け落ちてしまって、ドンドンとロボット型の人間が増えてしまいそうだ。

■コンピュータの世界

コンピュータの中には 大きく分けて 物を覚える場所(メモリー・記憶媒体)と考える場所(演算装置)がある。
 これは どちらも単独では力を発揮できない。
記憶媒体が覚える。それを引き出してきたり、それを元に加工したりするのが演算装置である。
物を覚えてなければ演算もできない。 覚えただけでは何を覚えているのかもわからない。

 では、その性能を表す場合、どういう尺度で比べるのだろうか。

メモリー・記憶媒体は どのくらい覚えられるか? それは記憶容量として量的に表される。
演算装置は 演算速度を比較して、単純にその速さを能力として表す。

 ものを覚えて考える。これは人間の思考に置き換えることが出来る。
 覚えることと考えることのバランスが必要なのはコンピュータも人間も一緒だ。
また、覚える力と考える力は 相互比較できない。(別々の能力だからだ) 

■人の能力

では、人の能力全体はどうあらわせるだろう。
実際は、人が物を覚える能力や考える力を数値で表そうとしても表せない。
それぞれが機械的につくられたわけではなく 生きていて皆違う能力を持っているからだ。

それを平等に評価しようとするとどうしても ある同じ事をやらせて、その結果の上だけで比較するしかない。

 ところが、人間には 体調や気分や発達の度合いの差がある。
Aさんが絵が発達しているときにBさんは字の発達というようにみな一様に発達するわけではない。

私の身の回りの例を書いておこう。
 大王は立体構成はものすごく得意とするが、絵はほとんど興味をもたなかった。
昨年だったか一昨年だったか、保母さんに相談したことがある。
保母さんの回答は 「そういう子も突然絵を書き始めると あっという間に上手になることがあります。発達に問題があるとは思えないので、気にしなくて良いと思いますよ」ということだった。

 すると、どうだろう。私からは絵を勧めたことも無いのにまもなく突然絵が好きになった。
毎日毎日 新幹線や車の絵を書いてくる。親から見てとても上手くなったと思う。

 こんな風に発達の波は 皆同様にくるのではなく、個人個人でその対象と時期が違うものなのだ。

 ある時点で 課題において良い点がとれなかったからといって その子のすべてが劣っているわけではない。また、子供の気分が乗らなかったときや 精神状態、健康状態によっても結果は左右されると思う。
 
■減点法と暗記

テストに出しやすく、採点しやすい問題がうまくできることが良い成績への近道だと思う。
これが、今の受験産業のノウハウに繋がっていると思う。
 テストに良い点をとるためには、カリキュラムの中から傾向を探り、その中でも どういう問題がテストに出しやすいかを探る。
 傾向と対策 だ。

 そうして、子供たちは、良い点をとるために他のものを切り捨てて、その対策部分に重点的に力をそそぐ。
内容によっては思考力、創造力よりも 記憶力が物を言う場合も多い。
 創造力・思考力を問うような問題はテストの採点で優劣がつけにくい。

さらに、テストに使われるのが減点法だ。
ひとつひとつ出来なかったものをカウントしていって残った点数の多いものが良い点数を取ることが出来る。
 この減点法と暗記重視が 子供の可能性を閉じ込めているような気がする。

 先日書いた 「子供に戦争をどう伝えてよいかわからない」というお母さん方は、たぶん学生時代はとても成績が良かった方々ではないかと思う。
 戦争について興味をもち、子供にどう伝えるか悩む。そこはとても大切なことだ。
しかし、戦争という正解がない問題について 自分で答えを出すことに臆病になり、自分で考えずに模範解答を求めているのではないか。

減点法では やった失敗を数え上げられる。失敗しないように、間違ったことを言わないように。
教えられていないことについて、自分なりの意見を言うこと自体が怖くなってしまっているのではないだろうか。

 昔、ガリレオという人がいた。
彼は 地球は回っていると唱えたが、その頃の常識はそうではなかった。
皆は、彼が示した根拠が理解できずに 自分が教えられたとおりに 天動説を信じていたんだ。
 結局彼の説は認められず、「それでも地球は回っている」ということになる。
 ガリレオは 減点法で評価すると0点だったのだろう。
だけど、本当は彼の言うことは正しかったのである。

テストはたしかにある切片での 定量的な評価ができるが、その限界というのも忘れないでいたい。
また、テストで評価されていない部分の存在を切り捨ててはならないと思う。
 個人の本当の能力を考えたときには減点法だけでは表しきれないと思うのだ。

画像は オキザリス ペスカプラエ

ひとの話しを聞け! 2003,4,9
人の話を聞け!
というのは自分に対する言葉なのであるが、ここのところ、雑多なことを考えていることが多く、頭の中まで散らかっている状態なのである。
 もともと、私は 子供のころから一度に一つのことしか出来ないといわれており、会社に入ってからもいくつかのことを掛け持ちでやるのはとても苦手としている。
その私が、会社も家も自分のやりたいこともなんて掛け持ちすること自体が無理なのか、とにかくものすごく散らかりかえった頭の中なのである。

そんな時には、先に自分の整理をすればよいものを、中途半端にいろいろやってしまうのが、性。
 実際何の役にもたたないのに なにか私にできることはないか?なんて思ってしまうのだ。
 結果、相手の話しをちゃんと理解できてなくて トンチンカンな返事をしてしまうことが多い。
後から 思い直してみると ずれたことばかりしていて 冷や汗や、申し訳ないと思うことばかりだ。
 
 トンチンカンでご迷惑をおかけしている皆さん、本当にごめんなさい。

■今考えていること

 書いてしまうが、来年に会社を辞めようと思っている。
 一旦辞めたら今のように、自分の好きなことをやってお金をもらうことは出来ないと思うし、きっと、数年たってから 新たな職を探すとすると 今のように楽しいやりがいのある仕事ではなく、きついばかりで給料も何分の一になるという可能性のほうが高い。

 だが、どう考えても 大王を小学校に通わせながら働くことは無理ではないかと思う。
さて、来年辞めるとなると、年金はどうなるんだろうとか 辞めた後どのようにしてすごそうとかそういうこともたまにつらつら考えたりしている。
 
  小学校に子供さんを通わせている方から聞いた話しによると、子供さんが寂しくて毎日のように友達の家に放課後行ってしまう。結局夜までその家にお邪魔して、夕飯をいただくこともあるとのこと。
 家に帰って誰もいないという子供さんが遊びに来たら 夕方になったからといって 閉め出すわけにはいかないだろう。

 そういえば、子供の頃 私は連日友達を山ほど連れて帰ってきて、おまけにその中にはオムツのついた妹まで連れてきている子もいて その子をそっちのけで自分が遊んだりと、保育園をやっているようだったと母が言っていた。
 毎日のおやつも大量に必要だったし、夕方になっても帰らないので困ったそうだ。
そういえば(●●の家にいくとおやつがあるから)なんて男の子が言っていたのをあの時はちょっと誇らしく嬉しく聞いていたような気がする。
(といっても実際は母手作りのお菓子や 大量のポン菓子だったりするので内容としてはショボイものだ。男の子達は 大きな缶に入っているポン菓子を両手でつかんで口にガバガバといれてハムスターのようになっていた。もしかしたらその量が魅力だったのかも。)
 子供たちは現金なので、たぶん うちにくればおやつが出るし、追い返されないので来たのだろうと思う。 当の私は 学校から帰っても友達と沢山あそべて楽しかった。

 夕飯まで食べさせて、よその子を遊ばせるとなると 私は人間ができていないので、
「何のために 会社をやめたのだろう」と思うかもしれない。

そんなことを ぼやぼやと考えたりしているのであった。今から考えてもしょうがない。。

とにかく、辞めたら 今「これはウソの姿だよ」と思っているものをすこしずつちゃんとしたい。
部屋の片付け、押入れの整理、ベランダの花の世話。etc.etc.

なんていいながら、一日パソコンにむかって ぼ〜っとして、夕飯作る気にもならないような日もたくさんありそうな気もする。
だって、結構長い連休でも だらだらと過ごしてしまうことも多いのだから。
 
■何もする気がでないとき

 ところで、唐突だが、何もする気が出ないときって自分は何をするだろうと考えてみた。
 寝る。だらだらする。ネットする。これが多いだろうか。
 もしかしたら 何かを食べるというのがあるかも。<これは体重増加を伴うので危険だ。
でも、眠くないときはどうだろう。 たしかにそういうときあるような気もするのだが、何をして過ごしたか覚えていない。

何かに没頭したい時は、刺繍や編物は 頭が空っぽになってよいし、園芸も空っぽになってよいのだが これは 何もやりたくない時は やる気も起きないような気がする。

 最近は否応無しに大王が絡むので 思い出せないのだがもしかしたら、
 本でも読んでみるか。。と 単純な短編の本を読んだりするうちに眠くなるとか、昔から何度も何度も見ている映画をつけっぱなしにしているうちに寝ちゃうとか そういうことが多かったかもしれない。
 
 何もする気が出ないときは、もしかしたら 何もしない方がよいのかもしれない。
眠れない夜に眠ろうとしてもドンドン目がさえるので、「人間は睡眠不足で死ぬことはない」と聞きかじった知識で居直って、ゲームしたり、本を読んだりしているうちにやっぱりつまらなくて眠くなるように そのままなにもしないでゴロゴロしているべきなのかなあ。

皆さんはどうしていらっしゃるのだろう。

画像は胡蝶蘭

JMM 2003,4,8
今日はちょっと書く時間がなかったのだが、
ここ数日のJMMは興味深かったのでご紹介。

最新号(4月8日)まさに今日の分。カナダの様子と アメリカの様子を読者から
http://jmm.cogen.co.jp/recent.html

少し前に 以前紹介した冷泉さんのレポート「戦時の情念」from911/USAレポート (4月5日)を受けての意見なのだが、
残念なことにこれはまだ、バックナンバーとしてインデックスが作成されてないようだ。

概要としては、報道に偏りがあり、現実感が薄れていること。
捕虜奪回の喜びは報道され、その奪回作戦のために犠牲となった方々には触れられないこと。
また、米国内では 米国に不利な報道をしているものに対する迫害が感じられること。
"Supoort US Troop"(米軍を支持しよう)というスローガンがじわじわ広がり、今週
末あたりからは全米各地で軍支持の集会が計画されているということだそうです。

 自由の国が真の自由の国かどうか?ということや、安易にコントロールされてしまう人々のことを聞きながら、コントロールされている人は 自由意志でそれを選択していると思い込んでいることの恐ろしさを感じて読みました。

 先日、母親から子供に戦争のことをどう伝えてよいかわからないと不安の声があがっているという報道を見たのだが、「なんで?」と私には理解不能でした。

戦争について自分なりの考えを その子供個人にわかるレベルに噛み砕けるのは 保護者しかありません。
そういう悩みを持つお母さんは 自分で何が正しいのか正しくないかという判断はどうしているのだろうと思いました。

 自分の意見がないから、子供に伝えるのが難しいのではないでしょうか。

思想まで世間での模範解答をもとめないと 分からないのか。。と 悲しくなりました。

上のようにひとつの事象に対して複数の物の見方があるのが 自然な世界だと思います。

画像は チューリップ レディジェーン

2003,4,7
■怒涛の週末

怒涛の一週間の後は怒涛の週末だった。そうして、また週がはじまってしまった。また一週間。。
もとはといえば、私が蒔いた種なのかもしれなかったな。。と今朝気がついた。

(種):金曜に、プラレール(プラスチックのレールを走る電車のおもちゃ線路などのパーツは沢山ある)のレールを譲っていただけるという話しがあり、どうしようかと家族で話しをした。
大王はもちろん「欲しい」とのこと。
家は大王のおもちゃで溢れかえっているのでどうしようかと思ったのだが結果はお願いしようということになった。 
 この土日にあればよいね。などと会話したのがいけなかった。
大王がそれを聞いていたようだ。

土曜は 6時半ころには起きだして来て 「プラレールをもらいに行く。」という。
まだ、相手の方と連絡とれてないから今日じゃないよと 伝えたところ、行きたい気持ちのやり場がなくなったようで、「つまんない どこかに行く」とのたまうのだ。
土曜は 寒い雨。土砂降りで風がぴゅうぴゅう吹いている。しょうがないので駅近くにできた電車とバスの博物館というところへ行った。 ここがとても気に入ったらしく、ご飯を食べてからもう一度と朝から夕方までそこで過ごした。

 日曜は、うちにある三輪車を使ってくださるという方があったので、それの受け渡しに出かける必要があった。
これまた大王は プラレールのパーツがもらえるとおもって 早起き。
 ところが今日の予定はそうではないと知って、ご機嫌がくずれはじめた。
 とりあえず、なだめてすかして 三輪車を持って出発。
丁度、桜祭りをやっていたのと、昨日の博物館のある駅だったので、三輪車をお渡ししてからまた博物館へ。。さすがの大王も 疲れが見えてきたので、フライトシミュレータに乗った後は、買い物をして帰ろうとしたところに 妹からの電話。
 桜祭りに来ているとのこと。
 一緒に少し回って 帰宅したのだが。。。さすがに二日連続は疲れた。

 「来週はどこにも出ないよぉ!」と宣言してしまった。(^^;)
 が、たぶん出る用事ができそう。

■ごめんよ

 昨年、花が終わった原種チューリップの球根を マンションの公園花壇に植えた。
 鉢植えでギュウギュウなので、我が家では翌年の開花は無理なのだが、原種だから もしかしたらそのまま次の年も育つかな?と思ったのだ。
 
 今年、昨年植えたところを見ていると他の方がスイセンを植えていた。
 ああ、球根なくなっちゃったかな。。と思っていたところ、小さな芽を1つ発見。
昨年よりもずっと貧弱な葉っぱだったが、斑入りの葉に見覚えがあった。
 「今年は養生して、来年咲いてね」と思っていたところ、昨日みたら小さな蕾をつけている。

 「そんなに頑張らないでよ。2年に1回くらいでいいよ。無理は禁物だよ。」なんて心の中でつぶやきながら、心配な反面うれしくもあった。

 うちは、昨年いろいろなものに手を広げすぎた結果、植えっぱなしのまま、春を迎えてしまった鉢も沢山ある。
 枯れたか。。と思っていたものから春になって皆芽が出てきた。
  貧弱な状態になってしまったものの中にも、ちゃんと花芽をつけたりしているものもある。
 冬の間の肥料をやったかやらなかったかも忘れてしまっているような状態だった。
 ひどいものは 積み重ねた休眠中の鉢から芽吹いているものもあった。

 ベランダの住人には、与えられた範囲でしか土がない。水も人間が撒かないと得ることが出来ない。日当たりだって、季節季節できちんと動かしてやらないと日が当たる場所が変わる。
 我が家の住人としてむかえておきながら、その仕打ちはひどいものだ。
 ごめんよ。ごめんよ。

■見覚えのある葉

 チューリップの横にも 見覚えのある葉があった。
先週みたときは、ワスレナグサに気をとられ、この葉ってなんだっけ?と思い出せずに終わった。
昨日みたら、大きな蕾がついてきている。。あちこち、雑草のように生えているのを見て、思い出した。
もしかしたら、これって、アイスランドポピーかもしれない。
 昨年、これも私が花壇に植えたのだ。
花が終わって種が飛んで今年は違う場所で芽吹いたのではないかと思う。

■種
 種をまくことで、こうやって嬉しい思を沢山することができる。
 そう思って、今年は 撒ききれない種をせっせと マンション共用公園に撒いている。
 ここにある花は 昨年私が蒔いた(植えた)から、ここにあるんだ。
  捨てればそのままになった種や球根が 今年も芽をだしたことがこんなに嬉しい。

 なかには 蒔いたつもりのない種が生えることもある。
 それが嬉しいときも、迷惑なときもある。

 種を蒔いても、おもったように芽がでないこともある。
 心待ちにしていてがっかりすることも沢山ある。

 自分の趣味と興味がつまっていて 思い入れがあり責任がある自分のベランダも大切だが、
 こういう思い入れのない気が楽な場も、別の楽しみがあるような気がする。
  そういうところで思いがけず咲いた花はどのくらい嬉しいだろう。
 今、私は そのチューリップと ポピーの花が咲くのが待ち遠しい。

日常生活とも似てないだろうか。
 種をまかないと生えてこないものもある。
 種を蒔かなくても 生えてくるものもある。
  蒔いた種から芽がでて喜んだり、芽が出なくて悲しんだり。
 蒔かない種からの花を喜んだり、蒔かない植物の出現を迷惑に思ったり。
 
 種を蒔く・蒔かないは 自分で決めればよいと思う。
蒔きたいのだけど、蒔こうか蒔くまいか迷っている人には、今の私は、ダメ元で蒔いてみてはどうだろうと言うだろう。

蒔かなければ、植えなければ マンションの公園に 原種チューリップも ポピーも無かったはずなのだ。

画像は 公園の チューリップ ピノキオ (少し痛んでいるけど)

やっと 2003,4,4
怒涛の一週間が過ぎ、やっと金曜日だ。嬉しい。
大王は昨日は少し目の周りの赤みが増してひどくなってきていた。口の周りも荒れてきている。
しょうがない。土日で吸わなかった花粉を一気に毎日外で吸っているのだもの。
ここのところ、ドッジボールをしているそうで、ドッジボールをするのに眼鏡やマスクは無理だろうと半ば諦めている。
 とにかく、今日を乗り切ってくれたら 明日、あさっては休みだ。

■今朝の失敗

今朝、出勤準備をしていて、顔にクリームを塗るのを忘れたことに気が付いた。
長い間私は、化粧水だけを使っていたのだが、昨年顔が盛大にかぶれてしまった後、治まったときにほとんどヤケ気味に 或る「ハンドクリーム」を塗ったところ、あら不思議。 私の顔にピッタリあっていたようで、いままで感じていた乾燥や痒みなどのトラブルが収まったのである。

 「なにもハンドクリームでなくても 普通のクリームとか 乳液とかあるでしょう。」
と普通の方は思われるかもしれない。
 しかし、あちこちの乳液やクリームをためしてみたのだが、どれも痒くなったりして長期使えたためしがなかったのだ。

 私が今使っているハンドクリームメーカーは 同じく顔用のクリームを出しているのだが、こちらもなぜか私は痒くなる。たぶん、顔用に特別に配合してある成分が合わないのかもしれない。

先日、私は ハンドクリームを顔に塗るのをわすれて出勤した。
するとどうだろう。。昼くらいから、顔が乾燥して、大変だったのだ。

 そこで、今日は悩んだ。すでに粉を顔に塗った後である。やり直すのには時間がもったいない。クリーム無しで行くか、それともやり直すか。
 迷った末に 完了した化粧の上からクリームを塗ってみた。
 見事に失敗。 粉がよれて 顔がまだらになってしまった。>> ふりだしに戻る。

顔を洗いなおして、最初からやり直した。急がば回れとはこのことだ。

■昨日

そういえば、昨日の帰りはついてなかった。
途中から私の隣に座った中年男性は、丹念にハナクソをほじくって 私と彼との座席の間に手を下ろして座席の下に ハナクソを落としつづけていた。 何べんも何べんも。
 私は、とても嫌だった。 電車の中で隣に人が座っているときにそんなことしないで欲しいなあ。。。と思った。 私からは彼がどこにハナクソを落としているかが見えない。
 うえ”〜〜〜。という気持ちだった。
途中彼が下車して、ほっとした。

 乗り換えて、いつも帰りに会う帰宅友達にその話しをしてお互い苦笑。
それから、2,3駅で乗って来た男性が少し離れた場所で、
 また 両の鼻を ●● こんな風に広げて、ハナクソを丹念に何度もほじり始めたのを見て、今日はそういう人に多くあうものだとおかしくなってきてしまった。
 それにしても大きな鼻の穴だった。 漫画の マキバオーという牛をご存知だろうか

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Denei/2915/
私はこれを思い出してしまい、笑いをこらえていた。

ところが、運の悪いことに、また私の隣があき、彼が隣に座ることになった。
そうして、また彼は ハナクソをほじりつづけ 座席の下に落としつづけた。

昨日はつくづく ハナクソの日であった。

そんな一週間も今日で終わる。そうして束の間の休息。うれしいよぉ〜。

画像はツルバギア フラグランス

2003,4,3
すっかり春になった。通勤時の日差しもあかるくて、今は桜が白かピンクかというような微妙な色合いの雲のように あちこちに見える。

 レンギョウが咲き、雪柳が風にゆれ、もくれんが空にむかって ぼんぼりをともす。
椿が今こそ私の季節とばかりに あでやかに大きな花をつけあちこちで咲き誇る。

電車にのって、周りの景色を見あきないのがこの季節だ。次々に新しい色の塊が私の目の前に展開される。

 しかし、最近「トシ」を一番感じるのもこの季節なのだ。

■春眠暁を覚えず

春眠暁を覚えずという有名な言葉だが、とにかく春は眠い。

最近私は花粉用のゴーグルをかけて行動している。花粉が髪につかないように帽子もかぶっている。(地肌がかゆくなってしまうのだ)
 私は、視力だけは良いので、いままで裸眼で生活しているのだが、ゴーグルのレンズの大きさの範囲と帽子のつばの無い領域というのは日頃の私の視野を2/5くらいに制限する。
 そのため よく人にぶつかってしまう。
眼鏡になれてないため、そのいでたちのときに日頃見えている部分が死角になってしまっていても、注意できていないのだ。

 また、ゴーグルは良く曇る。何かの拍子に真っ白にくもってしまい前が見えないときがある。人の姿はうすぼんやりと形が見えるだけ。
ひどい霧の中にいるかのようであり、階段の段差も見えない。 
(この状態になったとき、私はいつも以前やった お年よりの疑似体験を思い出す。) 

 話しはそれたのだが、そんなふうに視界が制限されるとなぜか人は眠くなってしまうような気がする。
 曇ったゴーグルをかけた私は電車の中で本当に良く寝ている。

■眠いのはそれだけが原因?

 一因は視界が制限されることにあると私は信じている。
 大好きな祖父が亡くなったとき、私たち姉妹は大変悲しんだ。
 その葬式でのできごとだが、前の列に座っていた妹が居眠りをしはじめたのである。
 私は驚いた、何度もつついて起こしたのだが、「信じられない」と思った。
  後から聞いた話だが、妹は大変視力が弱い。コンタクトや眼鏡なしではほとんど物が見えないということだった。
 その日、妹はコンタクトを忘れてきた。目のまえがほとんど見えないので眠くなったとのことだった。
  
  そう聞いて今の状態と重ね合わせて分かる気がする。
 妹はひどく悲しんでいた。そういう心の疲れと、目の前がぼんやりとしか見えないという条件がかさなって、眠気を催すことがあってもおかしくは無いと思う。

 そう。
 私の眠気にも他にも要因がありそうにもおもう。
 春という季節は 生き物の代謝が大きく変わる時期だ。そのストレスが体にきてもおかしくは無いと思う。
  とにかく、春は疲れる。一週間が長くて、月曜から次の金曜を待ち望む。
(今日もまだ木曜明日もう一日出勤する必要があるのだ。)

 一昨年はこれがかなりひどかった。毎週毎週あと何日と数えながら出勤した。
 そうして、今よりもずっと気力の面では頑張っていた。実際気力があっても出来なかったことは多かったようにも思うが、とにかく いつも頑張らねばと思っていた。
 そうして、5月連休は里帰りした。 直前まで 里帰りを止めたいといいたかったのだが、心待ちにしている 母達に そういうことができなかったし、中止する理由もなかった。
 結果、里帰り中に家族全員が熱を出し、私は戻ってから 肺炎になってしまった。

 この季節、やはり体力を使うのだと思う。
 若かったころはこのきつさが体感できなかったのだが、最近はめっきり年をとってしまって自分にも明らかに感じられるのではないかと思った。

■無理しない

 普通に生活している私がこんな風に感じるのだから、お年よりや、病気の人はどんなに体にこたえるだろうか?と今思う。
 母も義母も良い年だ。大丈夫だろうか。
 私の周りにも、病気と付き合いながら生活している身内や友達やご家族がいる。
 そういう人たちはもっともっと大変だろうと思う。

 気力も大切だけど、この季節は 自分の体の調子をよく注意して、無理しないように。
 眠くなっても、動けなかったとしてもそれは 怠慢なせいではなくて、体調が悪いせいもあるかもしれない。

 肺炎が治った時、ああ、あんなふうに家事ができなくなってしまっていたのは、私が怠慢になったせいではなかったんだな。と初めて分かった。

 心と体 ひとつのようで一つでない。 体のいうこと、心のいうこと よく聞いて無理しないで過ごしてほしいと思う。そう自分にも言い聞かせている。

画像は 公園に一昨年蒔いたワスレナグサ 

スパイキッズ 2003,4,2
忘れないうちに、先日見た映画を書いておこうと思う。

スパイキッズとスパイキッズ2だ。

■スパイキッズ

 昔スパイだったお父さん、お母さん。現在は引退して、子育て真っ最中。
ところがひょんな事から仕事を請け負うはめになった。
そうして、敵に囚われてしまう。
 
事情を知らなかった子供たちはびっくり。
事情を知って 両親救出へ立ち上がる。

 なんだか、ラテン系のこてこてパワーが見え隠れするオキラクなファミリームービーだが、子供と一緒に楽しめると思う。

 見所
 1)えっつあの人が?そうなの?
 2)すご〜い。まさかこうなっていたとは。。(メカとしかけ)
 3)意外にやるじゃん。
 4)やっぱりアクション?お姉ちゃんの びしっとぶりと弟のへろへろぶりがなかなか。

 こんな感じのハッピーなおこちゃま ミッションインポシブルです。

 テーマ
  やっぱ家族かな? 兄弟、姉妹かも。

 ひとこと、
  なんだか見てるとディズニーシーを思い出す。。

■スパイキッズ2

 スパイキッズとして活躍した お姉ちゃんと弟にライバル出現。
 それにしても、勝つためには 手段を選ばないなんて、汚いヤツラだ。。うう〜む。
 おまけに嘘も平気でつくし。。。

 1)子供が大好きな不思議な物(小学校の理科で出てくる)が楽しい
 2)あれれ?この武器って ディズニーランドで売ってなかった?
 3)懐かしい映画のシーンを思い出す大人もいるんじゃないかな。
 4)やっぱりメカがすごいけど、メカ以上にすごいものがあるってことだよね。
 5)最後はやっぱり ハッピーエンド。 

 テーマ
  ツールにたよらず 頭をつかえ??

 ひとこと
 あんな遊園地、行ってみたいけどコワイ。

 問題シーンもなく、安心して小さなお子様から大人まで見ることのできる映画です。
 
 私は両方とも好きだけど 2の方が一段と好きかも。。

 画像は プリムラ ゴールドレース

近況 2003,4,1
 大王のこともあり、ほとんどネットの世界で外出していない。
一度見始めるとどんどんとエスカレートしてあっという間に限界まで達するようなのに、ネット遊びができなければできないで、日々が平穏に過ぎていくのは 面白いと思う。

 ネットに関わると、知らないうちに「一日一回は これをしないと」とか 自分でスケジュールを決めたくなって、それが守りたくなり、そうして、どんどんとそれが増えていく。
 そうして、現実の生活がどんどんと圧縮されていくようにも思う。

そうではなくて、いつも思ってはうまく行かないことだけど、
自分のリアルの生活があって、それから 2番目に ネットがある という位置付けになるのが理想だよ。。と 頭の中で自分を諌めてみる。

 大王のアレルギーは月曜の朝に治り(土日外出しないから)数日続けて保育園へ行くとひどくなっていくという状態。 毎朝、花粉の飛散状況をチェックしては一喜一憂している。
 私の住んでいるところや、私の通勤先は ほとんど真っ赤に色づいていることが多い。

 ここのところ、大王はまったくのお母さん子になってしまった。
前からそのケは少しはあったのだが、「おふろは ままとしかはいらない」などと言い出す。
 先々来るであろう、反抗期に至る前触れなのか。なんなのか。
とにかく、彼が私を必要としているのであれば、その期間はそれにできるだけ答えてやろうと思う。

 それと、もうひとつ。

大王はここのところの食欲不振が少しなおってきた。
今まで、大人と同じような盛り付けをしていたものを、少しだけ子供用に趣向をこらしてみたのだ。体調がよくなってきたのももちろんあるだろうが、そうすると喜んで全部食べる。
(今朝のメニューは 釜飯?( ;^^)ヘ..。
 たきたてのご飯に ゆうべ作った 舌平目のムニエルをむしってほぐし、醤油をつけたものとごまを混ぜ込んで、上に焼きのりを細く切ってちらす。その上に野菜などをのせて彩りをてなぐあい。
 大人だったら、青紫蘇とかほしいところだが、オコチャマ用なので、本当なら野沢菜漬けみたいなのがあったら刻み込んで彩りもよかったのにな。。
 とにかく、お釜に入れているから釜飯だけど、内容は単なる残り物の混ぜご飯。
でもとても喜んで目をきらきらさせながら お釜の蓋を楽しそうにあけてあっという間に全部食べた)
 こんな小さなことでも、私としてはとても喜んでしまうのだった。

以前みた映画をふと思い出した。
「ブレインストーム」
バーチャルリアリティを体験できる装置を開発した人たちがそれに取り付かれていく様がかかれている。
 随分昔の映画なので、詳細を忘れてしまったのだが、いろいろな感覚を記録して疑似体験できるというもの。

ネットという仮想現実の世界は、とても魅力的であり、ネットで繋がった先の情報には作り手の人間がいる。その人の考え出した世界や、体験を別の人が共有するという面は、
 ブレインストームで いろいろな人が個々の興味のある仮想現実のいろいろな面にとりつかれていく様と似ていて、インターネットに取り付かれている自分と微妙に重なるところがあると思ったりした。

 あの映画を見たときは病的に取り付かれていく人たちを不気味に感じたような記憶があるのだけれど、今の自分もネットに取り付かれている点からみると彼等と大差ないと思う。
 自分がのめりこんだときに、映画を見ている私のような他人の視点に立って自分を見直す余裕をもつことをこころがけたいな。。

ムスカリ ラティフォリウム という名で買ったものだけど。。