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王様の耳はロバの耳(過去ログ)

普通は言わないけど、みんなどう思う?言いたいけど言う機会が無いみたいなことをおもいついたときに書こうと思ってます。

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人の間。 2004,6,26
2,3日前に、いつも楽しそうな息子が夜になって突然、なきじゃくり、きちんとしゃべれないくらいの状態になってしまった。
発端は、寝ようとして寝室に行ったときに足をぶつけたこと。「学校に行ってから良いことがない」と言うので「どうして?どんなことが嫌なことなの?」と聞くと「いじめられる」「グループの皆にきらわれて口をきいてもらえない」「友達が欲しいのに友達がいない」なんていう典型的な話を話し始めるので、私はものすごく驚いてしまった。

 もともと、今のクラスには息子の知り合いが一人もいない状態からはじめているし、小学校入学とともに、幼稚園での人間関係が続いていることはわかっているので、息子には多少厳しい状況だというのは把握していたから、余計に心配になり、全て話してすうすうと寝てしまった息子の隣で、何回も目が覚めるような落ち着かない一夜をすごしたのだった。

 次の日に学校へ行く用事があったので、様子をうかがってみて安心した。友達は沢山いる。(沢山の子ども達と話しをしたり笑ったりしている)し。短い時間にも10人くらいと話しをしたり笑いあったりしているではないか。グループの子全員とおもっていたのに、グループの中でも話しをしている。心の中で「友達がいないって。。。それだけ出来たら充分だよ〜!」と安堵した。

どうして、そんなに「嫌われている」とあれほど泣くまでショックをうけたのだろうと考えてはっと気がついた。
 私が働いていたから、息子のの交友範囲は狭い。今はいろいろと物騒な話しもあるし、休みくらいは親が一緒に過ごさなければと気をつけてきたので、子供同士でいるよりも家族と過ごすことのほうが多かった。保育園はとても恵まれていて、先生の目が行き届いていたし、子ども達もきちんと教育されていたのと、まだ精神的に発達していなかったので、トラブルを次の日まで持ち越すほどの記憶力もなかったから、特定の子に嫌われてそれが持続するということはなかった。皆小さな諍いがあっても仲が良かった。息子にとって、「人に嫌いと言われた。何日も口をきいてもらえない」という状況はすごい衝撃だったのではないかと思った。

■人の間
 少し話しは横道にそれる。
 昨年、帰省した折、昔の話しをお坊さんから聞き、カルチャーショックを受けた。
お坊さんが子どものころは、中学生くらいを先頭に子どもだけで小学1年生まで連れて川に泳ぎに行ったらしい。今だったらありえない。そのとき小学校一年だったお坊さんは、おぼれかけた。中学生が水を吐かせ、皆を指揮してお坊さんを助けたとのこと。その当時の中学生は水を吐かせ、体を温めという蘇生方法もよく知っていたことを驚くと同時に、子どもだけで川に遊びに行くということが何よりも驚いた。

 今では、子どもだけで川で遊ばせないことが常識と思う人も多いとおもう。
親がいつも介入する状態で、全ての法律は大人であれば、子ども達はいつまでも管理される側・擁護される側にまわって、責任を果たそうという気持ちが芽生えない。

ところが、大人は大人で、相手との摩擦にも気を使い、一緒に遊ばせていても相手の子どもを注意することさえあまりない場合もあるし(逆切れする親もいるため)、道ですれ違った子どもが悪いことをしていても注意することもないのが最近だと思う。言わば、大人は大人で中途半端にしか大人の責任を果たしていないことも多いと思う。
子どもは、そういう大人たちに触れて育つことで、「自分を叱る人に見られてなければ平気」という感覚が身についてしまう場合もありそうだ。

 限られた大人としか接した事のない子は比較的理不尽な物事に遭遇することは少ない。大人は子どもの理不尽さを我慢して、相手に合わせる。そういうストレスの少ない環境に育った子どもが突然同じような環境で育った子どもと逢うと、お互いの理不尽さがストレスになるのかもしれない。そうして、いつも解決を大人にゆだねていたのでは、解決のすべがみつからない。

 つまり、子どもは子ども同士の世界で小さなうちから、自分と相反する考えを持った人がいることを経験することが必要であり、自分達で解決することを学ぶ機会が必要だと思う。大人は大人で「自分が考えて正しいと思うことを、誰の子にでも伝える」ということが必要なのではないかと思う。
 小さな諍いの時代から自分で解決する。自分で気持ちの持って行き所をみつける。そういうことの積み重ねが必要だし、それが人として生活するのに必須だと思った。

大人の世界は実は、理不尽なことは沢山ある。我慢もいる。いさかいもある。そういうものを小さいころから経験することが子どもには必要だと思う。

人の間が人間だとよくいうけど、人との関わりなくして生活できない。
自分で人との関わりを自分なりにコントロールして生きていくすべを身につけさせようとしたら、親は過干渉に気をつける必要がある。また、子ども達に自分で正しいことを見つける力を育てるためには、「違う。いけない」と大人が思う場面に遭遇したら、自分の子どもだけでなく、どの子にも「自分の考えで相手を注意する」ということが大人の責任として必要だと思った。

 親の考えがいつも正しいとは限らない。子ども達は沢山の子ども達、大人たちに出会って、その考えを自分の目でみて、自分の考えで取捨選択することで大人に育つのだと思う。
 自分の親の考えが、大人になってみると、間違っていると思える場合もあるだろう。それがわかる時点で、その人は人の間で自分で成長してきたのだと思うのだ。 

よーくかんがえよう 2004,6,22
pon1が休みを取って、久々に映画にでも行こうかと誘ってくれたので、二つ返事で行くことにしました。息子が生まれてから、大人向けの映画に出かけることがなくなったので本当に何年ぶりかというところ。ところが、「今見よう」とおもうと、なかなかないんですよ。

まず、大画面で見たほうがおもしろそうと、候補に挙がったのがトロイ。ネットで検索してみると、「寝ちゃった」という感想が多いので、不安に。。。。
それに、どうもヒロインがへび女系の顔にみえて怖いのもいまひとつ乗り気にならないところ。

 もうひとつ見つけたのは、http://www.bunkamura.co.jp/cinema/
トスカーナの休日。こちらは私が大好きなイタリアと好き系のダイアンレイン(久々〜。綺麗になりましたね。このひと)が出るから行ってみたい。

でも、時間を考えるとトロイかデイ・アフター・トゥモローかということになりました。やっぱり眠かったとしても、あの大軍勢は見ておこうということになりトロイに決定。いろいろ、算段している時に「おおっ」とpon1が声を上げるのでなんだろうと思ったら、今日は22日夫婦の日だそうで、男女なら二人で2000円でみることができるとのこと。ラッキーでした。

 並んでいる時に初めて気がついたのですが、この映画、3時間もある。先日の王の帰還と比較されているのはこのせいなのか。。。だんだん不安になりました。
(pon1には、それを知らなかったことで、「信じられない!」この映画が終わる時間はわかってるの?と軽くジャブを頂きましたが。なんてことはない始まりの時間に3hを足せば良いのですからわかります。かろうじて)

と、いうことで、今日はその感想を書きます。
園丁はまた今度書くことにして、今日はさくっとこんなかんじでしたということを書こうと思います。

■トロイ

 寝てしまったという感想の多い中、覚悟して見に行ったのですが、意外にpon1もpon2も寝ませんでした。後からpon1と一致したのは「家族があり、子どもがある人とそうでない人の差ではないか」ということ。私たちからすると 感じるところのある映画でした。

 つまり、「ブラピー」とか「ブルームさまー」という人には不満のつのる映画だったのではないかと思ったのです。

というのも、今回この映画でとてもかっこよかったのは、オーランド・ブルームのお兄さん役「エリック・バナ」と、ブラッド・ピットの友達役の「ショーン・ビーン」だったから。この二人のかっこよさにしびれましたね〜。

それに引き換え ブラッド・ピットとオーランドブルーム。二人はあまりにも。。。

ブラッド・ピット。見事に筋肉モリモリの猿系の役になりきってました。あの筋肉はどうやったのだろう。筋肉増強剤とかそういうものを使ったのかな?。ブラピとその従兄弟はどうもこの時代に似合わない。なんとなく、ぺプシのコマーシャルのベッカムを思い出すような風采なのですが、まあそれは置いておいて、筋肉で考えるという人の典型。すぐにキレます。キレまくります。
 あなたが、あそこでキレさえしなければ。。。という場面のいかに多いことか。

オーランド・ブルーム。前回までオーランドブルームが素敵!なんて書いていた私ですが、コレに関しては、別の意味ですごい配役の妙を見せてもらったという気がします。
 このひとが考えなしの行動に出るから、どんどんと話しがひどい方向へ向かってしまいます。みんなアンタが考えてないからだよっつ。ということばかり。頭悪すぎ。頼りなさすぎ。まったく意気地なし。それがまた見た目にぴったりのはまり役。あんたって、根っからそういう人カモネ。という感じもあり。ファンの中には100年の恋も冷める思いがした方もいらしたのではないでしょうか。(しかし、オーランド・ブルーム。この話しうけてから失敗した〜と思ってないかしら)

そうして、この二人が考えてないことのワリを食ってしまうのが オーランド・ブルームの兄ちゃんエリック・バナのヘクトルです。彼は思慮深く、そうして洞察力もあり、家族や国民を大切にし、責任をきちんと果たしていきます。彼が、個人と国の間で揺れる思いを持ち、それでも運命の渦に巻き込まれてしまった王子の責任を果たすしかなくなったときに、とる行動。潔いです。そうして、とても悲哀に満ちています。

もうひとりのかっこいい人。ショーン・ビーンのオデュッセウス。彼もまた頭の良い人です。彼のどこか意地悪そうな顔がこの映画ではたいそう魅力的です。「この戦乱の世の中。あなたについていけば安心できそう。どこまでもついていかせてくださいまし。」という感じ。ロード・オブ・ザ・リングの ボロミア役をやったひとです 途中森の中でメリーとピピンを守り殺されてしまう役です。

そうそう。もう一人印象的な人がいました。スパルタ軍を率いているブライアン・コックス演じるメラネオス。彼は悪知恵がすごいタイプ。あの、貪欲さ、あのいやらしさ。(Hとかそういう意味だけではなく)そうして、それだけ貪欲でいやらしい性格なのに国が強いからといって、彼の命令を聞かなければいけない戦士達。(くぅ〜〜〜)

 長かったですね。映画。 途中で ダイアン・クルーガーが 「私の従兄弟が死んで、あなたの従兄弟が死んで、いつ戦争が終わるの?」と聞き「戦争は終わらない」みたいな(うろおぼえ)台詞があるのですが、延々と繰り広げられる戦いに、見ているほうも「本当に 戦争はいつ終わるの?」という気がしました。

ということで、「物を考えない人たちの行動によって、いかにいろいろな出来事が起こり、それに巻き込まれてしまったらその流れからは逆らえない」ってことかなあ。と思った映画でした。

 あの時、ブラピがもう少し考えて行動していたら、 あの時オーランドブルームがもう少し考えて行動していたら、こんなに沢山の人がしななくてよかったのよねえ。。。
なんて思いながら帰途についたのでした。 

トロイのサイトはこちら。
http://www2.troy.jp/
 エリック・バナって役者さんだと思ってませんでしたよ。このサイトを見たとき。

家族を大切に思う方。理不尽な上司にしばしば悩まされている方。たぶんなにか感じることのある映画だと思います。

WASABI こればっかりは 2004,6,21
息子が、やたらめったらDVD録画を頼むので、我が家のハードディスクは一杯一杯。
私が録画しておきながら見られなくて長い間そのままになっていたものを消すことにした。

 その中にWASABIがある。消す前にダビングなり見るなりすることに。

さて、広末。結婚後、すっかりとどうなったのか噂を聞かない。丁度、息子が生まれてからドラマも見なくなったので、彼女の演技がどういうものかは知らない。
リュックベッソン監督でレオンのジャンレノがでているけど、「評判あまりよくなかったなあ」というあの映画。

そういえば、完成披露かなにかのインタビューで突然なぜか泣き出して、それをジャンレノがなぐさめて「なんですか?」「これが噂のプッツンですか?」と狐につままれたような思いをしたことを思い出した。

広末涼子。口を閉じていても、口角が上がっている口というのはうらやましい限り。
私は毎日結構笑って生活しているつもりだけど、口角はそんなもんでは上がらないようで、チョットうらやましい。
 夫は、ああいった口は嫌いらしい。女性について美しいと思う人、そうでないと思う人の好みが夫とは似通っているのだけど、この点は大きな相違点。

 でも、広末。そんなに綺麗だと思ったことがなかったのだが、この映画の「アーパー」な広末。ファッションも雰囲気もむちゃくちゃ似合っていて可愛いじゃありませんか。頭よさげに、つんと澄ました彼女よりも、ずっとずーっと可愛い!
ジャンレノがかなり大きいので、広末が小さく可憐に見えるという効果もあるのかも。

 ま、そういう映画のようだったのですが、これ、広末はほとんどフランス語をはなしているらしいんですよ。
最初は吹き替えでみていて、台詞に違和感があるので、音声かえてみたら、フランス語!字幕ナシ。はっきりいって、筋もなんもわからない。そうして吹き替えはギクシャクで聞くにたえない。

フランス語がうまいか下手かなんげさっぱりわからない私だけど、こればっかりは吹き替えじゃダメだ。 字幕で見なきゃ!

広末とジャンレノのご対面すぎあたりまで見たのですが、どうやら、雰囲気としては「不思議の国ニッポンに迷い込んで戸惑うハードボイルド刑事を多少コミカルに描いた」という感じ。

買い物してるところ、見たら高島屋だ!なんとなく、店の感じは玉川高島屋っぽいのだけど、ちがうかなあ〜。ナラ・カミーチェあたり、とっても似てるんだけどなあ。なんてとても個人的には楽しめそうな予感もあるし。今度レンタルでみることにして、この録画は消すことに致しましたとさ。
また今度の楽しみにします!。

サッカー応援 2004,6,19
息子のサッカーの試合を見に行ってきました。
息子にははじめての外部チームとの試合です。
練習の試合中にコートの中で砂山作ったり まったくボールの方をみてなかったり、どうなることかとおもっていたのですが、どうにかなったみたい。

それでも、でかけるまで「行きたくない」とか「ユニフォームが大きすぎる」とか「ソックスが大きい」とかそれこそなんでもかんでも文句だらけだったのに、帰ってきたら「楽しかった〜」ですって。よかった。

以下。動画です。「1年生なのに、サッカーらしい」と感動してしまった。

その1(745k)
その2(540k)

4対2と2対2で一勝一引き分けでした。(^^)v 紅白のユニフォームが息子のチームです。

これも愛? 2004,6,16
結構楽しみながら書いていたら、ファイルアップでieが落ちてしまって(TT)文が消えた〜。(TT)。

気を取り直して。

■初夏
一ヶ月に1回通う道ももう初夏。ピカピカの日差しの中行ってきました。日本の梅雨はどこにいったのだろう。梅雨はなくなってしまったのかもしれませんね。
 白の夾竹桃が涼しげに咲いて(ああ、やっぱり夾竹桃は季節がら涼しげな白がいいなあ)とか。くちなしがかすかに香っていたり、ミズカンナが咲いていたり。(ミズカンナは本物を見るのははじめて)。 季節ごとに花が楽しめる行きかえりはとても楽しい。

■ショッピングセンター
帰宅途中の駅で一回りファッションフロアをまわってみたけれども欲しいものナシ。
今私が凝っているのは、スポーツブランドの機能性衣類。
アディダスやナイキから涼感素材やUVカットで、タウンウエアを少し意識したようなデザインのものがでているようですが、それが気に入っています。
 今日もナイキのボーダーV首Tシャツを着ていったのですが、さらりとして涼しい。
厚手のTシャツなど熱がこもってしまうことも多いので、この涼しさはイイカモ!と。
マイブームです。

■衝動買い
日本人も目からの紫外線を意識したほうが良いとか。外国なみにサングラスなどを使ったほうが良いという話も聞きます。年をとったときに、白内障になるという話もあるとか。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/life/li280401.htm
(ここではスポーツタイプが良いと書いてあるな〜。)
 一昨年、オーソドックスなサングラスを眼鏡屋で購入して、昨年は細い長方形のサングラスを購入したのだが、どうもPON1には「人相がわるくなるから。。」と評判が悪い。 「人相がわるくならないサングラスはないだろうか」と探してみた。
 サングラスをかけてから鏡をみるのだが、視界に色がついていて、眼鏡の色がにあっているかどうかわからないのが難点。 自分の顔を携帯で写真にとってみようかと思ったのだが、怪しい行動は慎もうと、断念。
 とりあえず、前よりは人相が悪くないと思えるサングラスを購入した。

■これも愛?
 家近くに戻ると、地面にミミズが干からびている「ありゃりゃ。ひからびちゃって、土にもどれなかったんだね」と通り過ぎようとして、ふと思い出すことが。

 うちには、息子がつかまえてきた 「シデムシ」「ダンゴムシ」「ハサミムシ」がいる。特に元気の良いシデムシが息子のお気に入り。シデムシのえさは 鰹節や、ニボシを与えている。 友達が学校に持っていったシデムシは死んでしまったそうだ。
 えさがキュウリやかぶとむしのエサというゼリーでは無理もない。

そのシデムシのことを思い出した。

「いつもいつも、ニボシじゃあ食べ飽きるだろう。」「栄養が偏ったりしないだろうか」などと思い始め、干からびたミミズを拾って帰ることにした。
 「ミミズをやったら大喜びかな」などと思いながら。

 家に帰ってプラスチックケースに入れようとすると、多少におうようだ。「しまった。臭かったらいやだなあ」と思ったけれども、とりあえず部屋には問題がなさそう。
 入れて少ししたら、シデムシがよろこんでかぶりついていた。

 実は私はシデムシやハサミムシはあまり好きな昆虫ではない。
シデムシは甲羅(羽)の下から見える意外に細長いおなかの動きが昆虫らしくないので好きになれない。おまけに、フナムシのような形の幼虫も少し気持ち悪い。
 ハサミムシも、あの羽のないからだや光沢がゴキブリを思い出して好きになれない。

そんな虫でも飼っていると 愛情とはわくもので「シデムシがよろこぶかな?」なんておもいながら、道端に落ちている「ミミズの屍骸」を持ち帰るなんて!!!
われながらビックリである。 これは愛情なのだろうか。飼っているうちに愛着がわくというが。。。。
 
 たぶん、以前ほどシデムシは嫌いでなくなっている自分を発見してしばし唖然。

今日も、「友達にシデムシを見せたいから友達の家に持っていく」という息子を「誰でも昆虫の好きな人ではないから」「こんど、もって行って良いかどうかお母さんにきいといてあげる」と説得する母であった。

ちなみにシデムシ
こんなやつです。
成虫になっても、おなかのくねり方は、幼虫の頃のくねり方を踏襲しているのです。

しゃしんは携帯でとったミズカンナ

豊かさ 2004,6,15
もう一ヶ月くらい前のことになるが、家族で東京都児童会館というところへ行ってみた。渋谷駅から徒歩7分くらいのところにある。
 建物は古いのだが、中はいろいろ充実していて、乳幼児から小学校高学年くらいまでがそれぞれあそぶことができるような施設だ。

 施設はネットで調べて地図を見ながら探したのだが、また行ってみようと思うようなところだった。

ところで、会館は公園と隣接している。隣の公園に50〜60台と思われる中年以上の大人たちがとりまぜて何かやっているところを 「なんだろう」と見るともなくみていた。
大きな鍋などがあり、楽しそうに皆会話している。20〜25人くらいはいたように思う。
どうやら調理をするようなので、何かのイベントだろうか。季節は初夏だけれども芋煮会でもあるのだろうかと思っていた。

会館を出る頃には、和気藹々とした調理は一層進んでいた。
結局少し距離があったので、何の集まりかはわからなかったのだが、服装などからもしかしたら ホームレスの人たちの自炊かもしれないと思いあたった。

もしそうだとすると、映画「たんぽぽ」のホームレスの人たちは本当の姿だったんだなあ。などと思いながら帰途についた。
 集まった人たちはみな一様に元気がよく、楽しそうに、まるで中学生か高校生の夏休みの活動かのように生き生きとした表情をしていた。

■テレビで

その数日後、テレビを見ているとある地方の一人暮らしのお年寄り対策をしていた。
世話役の人が食べ物を少しずつパックに入れてお年寄りへ渡すのだ。
 年をとると炊事もなかなかままならない。何人かボランティアがあつまるとお年寄りの一食分くらいにはなるので、それを頂いて家で食べるということだった。

 私は、ああ、これはいいアイディアだなあと思う反面 数日前に見たあの生き生きした人たちとテレビのお年寄りをかさねあわせてしまっていた。
 こちらは、皆家を持ち普通に暮らしている人たちなのだが、表情をみるとホームレス(だとおもう)人たちのほうが数段生き生きと楽しそうだったのだ。

 ごはん一つにしても、毎日一人っきりで食べるより、沢山の人と楽しく食べたほうがおいしいにちがいない。

日本の幸せとか豊かさってなんだろう。と思った。
子育てを終え、子どもをみな一人前に育てた後に孤独な老後がまっているのだったら。
家があっても、多少のたくわえがあっても本当にそれが豊かだといえるのだろうか。
そんなことをつらつらと考えたのだった。

バランス 2004,6,14
新しい週がはじまった。
涼しくてすがすがしい朝。今週はまだ予定が詰まっているけれども、元気をだしてやっていこう!

■バランス
会社勤めの頃、無性に理詰めでないものをやりたい頃があった。
お花を習い始めたのもそれが発端だったように思う。「1+1=2」という唯一つの正解にたどりつくものではなく、感覚を使うようなものがやりたかったのだ。

 本が読める時期、読めない時期というのもある。本が読める時期は突然やってきて読めない時期も突然やってくる。本を読むつもりでどんどん買っていたら、突然読めない時期に突入してしまって読んでない本が山積みになるなんてことも多い。

そんな風に、何かをやりすぎるとバランスをとりたくなるという傾向が私にはあるように思う。(どちらにしても、両極端な性格。これは性格だからしょうがない。)

 私が「人見知り」だと言うと、たぶんpon1や私を知る人は「え〜?」と否定するだろうけれども、私の中には根本的に人見知りの部分があると思う。
 でも、その部分を抑えこんで「知らない人と会う。」ということをやっているところがあるし、やるからには楽しむという姿勢でやるし、実際、やってみたら楽しいということも多くある。
 しかし、やりすぎると自分の中の「人見知り」を抑えこむことに結構パワーを必要とするようで、親しくない人に会うという方向に自分を向けられなくなってくる。

 何事もバランス。ここのところ営業さんのように 広報の関係で知らない人にも飛び込みでいろいろ話をすることが多かったので、「対人パワー」を使い切ってしまったようだ。 今はあまり親しくない人と話をしたくないという気持ちが強いので、自粛していようとおもう。
 とは言いながら明日は クラスの懇親会があるので出席するわけだけど。(^^)ゞ

そう自分で知らず知らずのうちにバランスをとりながらやっているのだろうな。
やりたくない時にはやらない。会いたくないときには会わない。という自分のサインをそのまま肯定して 明日の力にすればいいさ。

今週は予定はびっしりだけれども、時間的に家のことが出来そうな予感。嬉しいぞ!
無理せず少しずつやっていこう。さて、家事だぞ〜。

とりとめもなく 2004,6,13
最近子ども関係のことばっかだなあ〜。そういう生活しているからま、しょうがないといえばしょうがない。

そうそう。がっかりしたこと。
あんなに待ち望んでわくわくしていた リトルジェム。なんと!3日目に茶色に変色しはじめたこと。花の命は短いのねえ。( ´Д⊂ヽ

それで、うれしかったこと。
意気消沈して、「あああ、ちゃいろくなっちゃった。花がらとったほうが木のためだよなあ。。」なんておもっていたら隣の枝にまた蕾が出来ているのを発見しました。
リトルジェムについてのページを以前見たときに四季咲き性と書いてあるページがあったのですが、四季咲き性って本当なんだなあ。 コレが咲くのは多分秋頃じゃないかな。気が長くて待ち遠しい話。

■楽になってきた

PTAはさておいて、子どもについて。小学校に入ると格段にラクになると聞いていたのですが、たしかに。その兆しが見えます。
 まず、近所の公園までは自分で行きます。小学校にもなって親がついてきている家はないから。「いってらっしゃ〜い」と送り出し完了。
 帰りは今は迎えに行っていますが、これも自分で帰ってこれるようになるかな。

友達の家にも自分で行って自分で帰ってきます。(勿論その前に保護者同士で電話のやりとりはありますが)遅いときには迎えに行きますが、大抵大丈夫。

留守番ができるようになります。(これはもう少し小さい時から練習しはじめたけど)
だから短い間だったら保護者は子どもを残して一人で外出できるようになります。

そういう積み重ねで、「ああ、こんな風に手がかからなくなっていくんだなあ」とおもったりしました。

 それでも、サッカーの練習などに「ママも来て」といわれることがあり、嬉しいような、「その時間くらい子どもから離れて私の時間にしたいなあ」なんて思うこともあり。(^^)

 でも、そのうちに私が行きたくても「見に来るなよ」なんて言い出すんだろうなあ。

■子どもの存在

昨日は、息子が夕方から寝てしまったので、郵便局と買い物に行きたいと思った私は、出かけようと夫を誘いました。
 子どもも起したのですが、「留守番する」ということなので、二人で出かけました。
久々の二人だけでの外出(いつも子どもが一緒だから)。嬉しいのだけど、なんだか照れくさいんですよ。不思議な感覚。(行き先はスーパーと郵便局なのに)

いつも、相手二人(夫と息子)対私という認識をしていたのが、突然 夫対私の1:1となって濃〜い感じに戸惑っているというか。
 子どもと一緒にいるということは、いつもずっと相手(子ども)に気を使っている状態なので、自分のことだけ考えていれば良い、一人前の人と会話することだけを考えれば良いというのはすごくラクラク。
 脳みその稼働率がぐ〜んと下がって、そのぶん他のことが考えられるような自由な気分がしました。
子どもが一緒の時は だいたい6割くらいは子どものことに気をつけていて、後3割で買い物などして最後1割が夫という比率なのですが、そのCPUの占有率が一番高いJOBがすっきりなくて、この空いた6割どうしましょうか? という 戸惑いというか。(^^)ゞ
 そういう生活をここ何年もやってなかったから すぐには適応できないようなそんなちょっとギクシャクした感じも多少アリ。

でも、子どもはすぐに親から離れていきます。たぶん。近い将来。
そのときに、子ども抜きでも「夫婦」としていい塩梅に仲良い夫婦でいたいなあと思うのでした。つまり、必要以上にベタベタしてないけど、お互いが自然に同じ空気(あうんの呼吸)をしょっているような感じ。

 そういえば、お昼ごろ学校へ行く途中に50歳くらいと思われる男女が手をつないで楽しそうに歩いているところに出くわして、なんだかこちらのほうがきまりが悪かったのを思い出しました。
こういうのも「父・母」をやってきたからの感覚なのかしら。
 でも、たぶん、私はこれから先も必要性がなければ 夫と手をつないで歩くっていうのはしないかもしれないなあ。

今日はとりとめもなく

でっかい花。タイサンボク リトルジェム。香りは強すぎない上品な香りでした。
大きな花(私の両手首をくっつけて花を作ったくらいの大きさ)なのです。

うれしかったこと〜 雨の日の水遣り 2004,6,11
今日は久々に、家のことしか予定がない。うれしい〜。(感涙)

それももちろん嬉しかったのですが、それ以上に嬉しかったこと。
昨日PTA便りを発行しました。担任によって配る日が違うので、うちの子は昨日は持ち帰らなかったのですが、早いクラスでは昨日配布されたようです。

委員会から帰宅してどんより疲れながら夕方にメールチェックしたら、見慣れないメールアドレスが。MLもできるだけやめてしまったので、見慣れないメールアドレスからメールがくることはあまりありません。

見てみると、PTAだよりの感想でした。
PTAだよりに、ご意見ご感想用のメールアドレスを乗せたのです。でも、一応のせてみたけれど本当に感想なんてもらえるとは思っていなかったので、びっくり。
だって、私が何か読んで多少面白くてもわざわざメールを出そうとは思わないので。

メールには、「とても参考になる内容で先生方のお人柄や個性を垣間見ることができてとてもよかった。次号もたのしみにしています。」と書いてありました。疲れで体はだるかったのですが、すごく元気になれました。

■企画

さて、もうそろそろ広報の方も今年一番力を入れるはずの広報誌の企画がはじまりました。委員さんたちは最初は企画に戸惑っていたのですが、少し案がではじめるととても活発に意見がでていました。
 やはり、母親は 子どもが元気に学校にかよっているか。 子どもの学力。進路、安全などをふくめて どう行動し、そだてていくべきか ということに興味があるようです。

その中で、最近の子どもという話が出ました。
以前 高校教師の方から聞いた話なのですが、学校を中途でやめていく子らに共通する特徴として 「どうしてだか、1対多で話ができない」ということを聞きました。
「どうしてでしょう」と聞いても「なぜだかわからないけれどもそうなのです」ということでした。

 昨日聞いた話も同じように、子どもも一対多でコミニュケーションとれない人も多いとのこと。なにか社会的に原因があるのでしょうか。

そんな風に思っている矢先に、ときどき拝見している日記に
http://ww41.tiki.ne.jp/~roku/diary/diary042.htm
某有名大卒の新入社員の話が載っていました。

オチまで読んで、本当に心配になりました。
自分で考えることをやめた人はそれ以上の進歩はありません。人まねをしているだけ、人の知識を鸚鵡返しにすることだけに、たけてしまっては社会に発展はないと思います。

そういえば、今朝、新しいハリーポッターの予告編がテレビで流れていました。
4本足の鳥にハリーが乗っているわけですが、ついこちらの日記をhttp://plaza.rakuten.co.jp/doctorwu/diary/200405260000/
思い出しました。

■本では得られない知識

 先日、息子をつれて地引網体験に行ってきました。雨の中びしょぬれになりながら引っ張る地引網。息子だけでなく、私もpon1も地引網ははじめての体験です。
子どもたちは海につくと 次々に波打ち際まで行き、靴をぬぎ、波と戯れながらどんどくるぶしから膝、膝から腰と海に入っていきます。
 砂を掘るもの、貝を拾うもの。

 たとえば、アサリの剥き身しかたべたことがない子どもは 二枚貝の殻が対になるものでないと合わさらないということは知らないかもしれません。 もしかすると「貝合わせ」などという知識から 流行のトリビアのように「へえ〜」と知ることになるのかもしれません。
 
 先日アサリを食べた折、息子は殻が欲しいと言い、綺麗に洗って「しんけいすいじゃくしよう」と持ってきました。これが意外に難しいのです。pon1もpon2も子どもの頃に潮干狩り経験者ですから、対になる殻しかくっつかないのは知っていたのですが、柄も似たもの同士がくっつくのではないかと思っていたのです。
 ところが、他人の空似はあるわ、ペアなのにさっぱり柄が似てない貝はあるわ。驚きました。

そういう実地の経験に基づく知識は、確かに見た目の効率はわるいかもしれないのですが、テストでははかれない沢山の情報が頭に蓄積されていくように思います。

 世の中にはハエなどの羽ばたきがまだ解明されていなかったり、
http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/technology/story/20020906301.html
それを研究して飛行技術に生かそうとしている人たちもいるわけで、なによりも私たち人間が生きて生活していることは自然の中の一つの現象であるということを忘れたりおろそかにしてはならないと思うのです。人間が解明している自然というのはまだほんの一握りでしかないのではないかと思うのです。
 
 本から得る知識は勿論それがあるからこそ、人間社会がここまで発展したわけですが、それだけではなく実地で物を見ること、そうして耳学問だけでなく自分でそれをしっかりと体感して知ることが特に子どもには大切ではないかと思います。

そう思ってみていると、砂浜の砂遊び。子どもにとってみれば、砂の感触。どうやれば大きな山ができるか、どうやれば波に流されないか。どうやれば。。。と子どもの頭の中ではいろいろな思考が渦巻いているわけです。
そういう機会をできるだけ与えたい。子どもが海や砂にひきつけられるのは、彼らの脳が単調でない新しい刺激を求め、発達しようとしているのではないかと思うのです。

 遊びを通して沢山の経験をさせること、それも親の務めだろうとおもっているところです。

脱出 2004,6,10
先月、息子のことを書いた。(いろいろご心配いただいてとてもありがたかったです。)
その後、どうにか息子は持ち直してきた様子。本当にどうもありがとうございました。

後からわかったことだが、どうやら真後ろに座っている子が乱暴で、悪気がないらしいが、日常的に息子は嫌な思いをしていたらしい。
 「今日ね。そうじをしていたら○さんがうしろからけったから転んで鼻血がでちゃったの。」と私に言ったり、pon1には「うしろからすぐに叩くんだ」というから、pon1「いやだって言ったらどうだ?」というと「痛くないから平気って言うんだ」と息子が返事したそうだ。
 相手は「痛い」といわせたくて「泣かせたくて」叩いているわけだから、我慢して「痛くないから平気」って言っちゃうとそりゃ「痛い」って言うまで叩くよな〜。なんて思った。

 それも、席替えがあってからなくなったようだ。

サッカーの方も実は乱暴な子が何人かいる。それでブルーになっていたようだ。「乱暴な子には近寄らなければ被害にあわない。刺激しないようにそっと遠くに移りなさい」と教えたら息子「だって、ついてきたら?」私「ついてきたら、またそーっと遠くにうつればいいんだよ」と。 先日行ったらトラブルもなく、自分も上手にできたと思ったようで、ひとつ障害をクリアしたようだ。

■残酷なもので

人間っていうのは、そんなに汚いものだと思いたくないのだが、ふと上の文を書いていて、やっぱり残酷なものなんだなあと気づいた。

子どもの世界で上に書いたように
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 相手は「痛い」といわせたくて叩いているわけだから、我慢して「痛くないから平気」って言っちゃうとそりゃ「痛い」って言うまで叩くよな〜。なんて思った。
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という気質はそのまま、大人になっても持ち合わせている人も多いように思う。

相手が「痛い」というまでどんどん叩く。相手が我慢して「平気」と言えば言うほど力を強める。 勿論大人だから 本当にたたきはしないけれども、ことばの暴力や、嫌がらせの類は大人になってからも遭遇することだろうなあと思った。
 どうやって切り抜けるか、それはきっと子どもの頃からのこういう経験を通して一人一人が学んでいくんだろうなあと思ったりした。

■先生の話

先日委員と学年の先生方の顔合わせの会があった。
委員から「先生はどの程度子ども達のトラブルに介入しているのですか」という問いがあったときに、先生から話があった中に、印象的な話があった。

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 子どもは悪いと言われると、かならず、決まったように「ごめんなさい」という。
それを聞いた子どもはかならず「いいよ」という。

加害者側の子は、本当に悪いとわかって言っていない場合も多い。
悪いですよ といわれると 本当に悪いと思っていなくても「ごめんなさい」といえばコトが済むと思っているし、相手も「ごめんなさい」といわれれば「いいよ」というものだと思っている。

でも、相手の子に「本当にいいの?」と聞くと「もう、ぜったいしないでね」となどの言葉が出る。
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子どもの世界は大人の世界の縮図だ。
大人でもそういうことは沢山あるだろう。安易に口先だけで「ごめんなさい」と取り繕われても、本当は許せないこともあるだろう。
 また、取り返しのつかないことをされた場合、相手に対して憎しみは抱かないにしても許すことは出来ないということもあると思う。

 お互いが許しあうには相互理解が必要だと思う。片方だけのあゆみよりでは不可能なことだ。また、片方の押し付けでもできない。理解せずに許せるのは、自分にとって些細なことだけではないだろうかと思ったりした。

■横道だが

最近は嫌なニュースがよく目につく。

少し話しは外れるが、三菱自動車のリコール隠しについて。

欠陥で何人もの人の命が失われているニュースを知りながら、自分達の利益を優先してしまった人たち。どういう気持ちだったのだろう。
 人の命と自分の利益を天秤にかけて 命の方が軽いなんて。遺族の方々の思いを考えると「いいよ」などと言えるわけがない。

 このようなことが二度とおこってはならないとおもう。
けれども、過去、似たような事件は何回か耳にしたようにも思う。
人の痛みを理解できない人たちに、それがどれほどいけないことか、自分が手をくだしていないにしても危険性を放置し隠すことは、殺人にも等しいことだと どうすればわからせることができるのだろうと思った。

咲いてきました。 タイサンボク リトルジェムです。なつみかんくらいの大きい花です。

言葉の難しさ 2004,6,9
先日、近所のお母さんから電話を頂いた。すごい雨の日に学校に出かけなくてはいけなくて「うちは車出すから乗っていく?」というありがたいことだった。
 どうしようか、と一瞬迷った。

車をもってないことには、実はあまり不便を感じていない。近いところは歩いた方が自分の健康にも良いし、その分必要があればタクシーをつかうことにしている。
隣の駅で買い物をしたら、大抵タクシーで帰るし、遠出をしても、場合によってはそこからタクシーに乗ったこともあるし、余力があれば途中まで電車で、隣の駅で降りて駅からタクシーで家まで戻ることも多い。
 車の維持費などを考えるとタクシーを頻繁に使ってもそんなに贅沢ではないというpon家の結論だ。 運転手は、疲れていても気を張ってなければならなかったり、いろいろな面倒もあるし、なんせ長年ペーパードライバーだったpon1pon2危なくって車を買ってもすぐには乗りこなせない。

 一番「ああ、まずいなあ」と思うのは、車を持っている人と行動をともにすると、我が家がいつも相手のご好意に甘えることになること。 我が家としては「タクシー可」と思っていても、相手の方は「わざわざタクシーでなくても」とおっしゃってくださったりすると 本当にありがたいのだが、申し訳なさもずし〜んとやってくる。

 そういうことで、乗せていただきながらもこのお返しはどうやれば良いのだろうと心のどこかで考えていたりする。そんな午後だった。

■どうして車ないの?
いろいろあって、結局乗せてくださった方の子どもさんとうちの息子も一緒に乗ることになった。そのときに、子どもさんが
「○のママ(私のこと)。どうして○くんの家には車がないの?」と聞いた。
それを聞いた彼のお母さんは焦り気味に、
「そんなこと聞かないの!」と子どもを諌めた。

 うちの場合は、上のような理由もあったので、聞かれてもなんとも思っていなかったので、
「それはね。○くんのママもパパも、車をきちんと運転できる自信がないからだよ」と答えた。
お母さんもそれを聞いて
「うちも、子どもが二人だから買ったようなものだから」とおっしゃってその後も普通に会話が続いた。

■相手の受け取り方

同じ言葉でも、相手の状態によって受け取り方が違うものだ。
車が欲しくて欲しくてたまらない状態で どうして車がないの? となると子どもに言われてもやっぱり気になるものだろう。 欲しくない状態で どうして車がないの? と聞かれても 「欲しくないからだよ。とか要らないからだよ。」と言える。

 たとえば、「あなたは背がたかいね」と声をかけても、背が高いことを悩んでいる人にとってみれば不快な言葉かもしれないし、反対に背が低いと思い込んでいる人には嬉しく感じる人と、皮肉に聞こえ人がいるかもしれない。

 そういうことを考えれば考えるほど、言葉というのは難しいものだと思った。

■肯定とさらり

 長崎の事件のその後の報道を見ると、ネットということがクローズアップされている。たしかに、ネットは簡単に不特定多数に見えるものを書くことができる。

 でも、この事件は確かにネットは状況を助長していたかもしれないが、「ネットだからこその事件」ではないと思える。その前に被害者の容貌などに関する言動によるトラブルがあったようだ。

小学校6年の頃に、一年年下の女の子が私に付きまとっていた。彼女はいつも近寄ってきては、私にしつこくしつこく「アホミ」と呼びかける。私の名前が「アホミ」に似ているというのだ。私はその子が嫌いだった。ほとんど話したこともない子なのに、私のことを何も知らないのに、なぜそういうことを言うだけのために来るんだろう。日常的にアホだとかバカだとか言われたことがなかったから、そういう風にしつこくくっついてくる子がうっとおしかった。
 でも、嫌いだからといってその子をどうこうしようとは思わなかった。
それはたぶん、自分の中で「自分はアホではない」という自信があり、周りの人もアホではないとわかってくれていると思っていたからではないかと思う。

 簡単に片付くことと片付かないことの差は、自信の有無かもしれないと思った。しかし、自分は何に自信がないなんて人にはそうそうしゃべらないし、自分でも認識していないことも多い。自己否定につながりそうなことを、何気なく相手がしゃべったから、深く傷ついてしまうのだろう。

 そんな些細なことがイヤだったなんて笑い話だが「アホミ」をどうして乗り切ったかというと、できるだけ その子を避けたように思う。
そうして、親に「アホミ」って言われるんだ と打ち明けたような気がする。
親は勿論「あなたはアホではないから、そういうのは ほっておきなさい。」と言う。
この 「あなたはアホでない」っていうのが子どもにとっては救いなのだなあと思った。

 ここで、親として対応を 3つ考えてみた。
勿論、ことの重大さによって対応が違うと思うのだが、アホミ程度のことだったら、
○相手の親に「オタクのお子さんはこんなことを言う」と怒鳴り込む。
○相手の子どものことを「まったくバカな子どもだ。」と非難したり陰口を言う。
○「あなたはバカではないからほっておきなさい」 と気にしないようにする。

今思うと3つ目の対応がベストだったように思う。
そのときは母がほっておくということは煮え切らない思いがしたかもしれない(実はいやだったという記憶だけでそれ以上の記憶はないのだが)でも、実際世の中に出ると、ことの大小はあるけれどもこういうことは本当に沢山ある。

 明らかに相手が悪意を持っている場合もあれば、自分の思い過ごしのことも多い。
その一つ一つに対して、敵をつくっていてもしょうがない。自分を生き難く辛くするばかりだ。多少気になっていても「気にしない。さらりとながす」というすべを身につけることは生きていく上でとても有用なことかもしれないなあと思った。

 子どもは確固とした自分の価値観が形成されていない。自分の価値観と全く異なるものを与えられるとそれについての自分の価値観や自己肯定の思いがゆらいでしまってわからなくなってしまうこともあるのではないだろうか。
 そういう時に、自分をきちんとした目で見守り、正しいことは肯定してくれる人たちがいるといないが大きく違うのではないかと思う。

 息子はあまり学校のことはしゃべらない。でも、もし、なにか彼が気に病むようなことがあったら、彼を肯定するのが親の務めだと思うので、そのアンテナを高くして肯定したいと思った。そうして、相手を敵対視するのではなく、さらりと自然にやりすごせるようにできるだけ導いてやるべきだなあとふと思った。

※実際は、受け手が自分の否定だと受け取っても 相手側は否定だという意味合いで言っていないことのほうが格段に多いのではないかと思う。
 同じことを聞いても悪くとれたり、よく取れたりすることは意外に多そうだ。
なにか気になったことがあっても努めて自分には良い方に解釈するほうが良いのではないかと思う。

ちょっとまとまってないけど。

写真は スタージャスミン トウテイカカズラ です。 

命の大切さ 2004,6,3
題名から、何の話かわかると思う。
小学校6年生の女の子が同級生を殺害してしまったあの事件のことだ。

小学生を子どもにもつ親からすると、無関心ではいられない。外から入ってくるいろいろな情報・事件を見ながら、どのように育てれば良いかと手探りで子育てをしている私たちには「絶対こうすればよい」という答えはみつからない。ただ、夫婦で話し合いながら息子にどう、何を教えていけば良いかを また手探りするしかない。

■ネット

 今回の事件にはネットが大きく関わっているという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040603-00000145-mai-soci
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20040603k0000m040145000c.html

私のネットとの関わりを振り返ると、ネット歴はかなり長い。
そういう私も、ネットではいろいろなトラブルを経験して、すでに大人であったけれどもかなり悩んだことがある。

以前にも似たようなことを書いたことだが、
2者間のトラブルは 対面 − 電話 − 手紙 − ネット  という順番で 後ろにいくほど深刻で発生しやすいと思う。

 たとえば、電話でトラブルになってしまっても、出向いて一対一で対面しながら話をすると解決したという経験を持つ方も多いのではないだろうか。

 これは、情報量と時間が関係あるように思う。

 対面して話をする場合、声の調子・表情などが双方にわかるため 表現の誤解が少ない。手を伸ばせばすぐ触れられる位置に人がいるというのは、安心感や親近感につながる。それが、言いすぎを防ぐことも多いだろう。
 電話の場合は、表情は見えないけれども 声の調子がわかる。しかし、安心感や親近感は対面時よりも減ってしまう。会うのは億劫だから電話で済ませたいという心理が働くということを経験した人も多いだろう。
 手紙は、声の調子はわからないが、書きなぐった手紙を勢いにまかせてすぐに投函するということをする人はあまりいないだろう。手紙を出すまでに 書き、読み直し、封をし、住所を書き、投函するという時間と空間がおかれることになる。そのうちに自分の怒りがある程度落ち着いてくることも多いと思える。
つらつらと怒りを文にしていると、書くことで怒りが静まることを経験した人も多いのではないだろうか。書いて読み直し、投函するという手順を経ることで、「そこまで書かなくても良いや」と言わずもがなのことを自ら削ると言うこともありそうにおもう。
 相手がその文を受け取るまでには、さらに時間がおかれる。相手も怒りがある程度落ち着いたときにその文が届く。

 しかし、ネットは まず、相手に伝わる情報が少ない。顔の表情、声の調子などが伝わらない。また、文も書き直し、読み直しという手順を踏まず話し言葉のように頭からでてくるままを垂れ流して書かれることも多い。
 情報伝達の即時性がネットの利点ではあるのだが、双方の気持ちの行き違いがあった場合に その垂れ流した文章が即時に相手に伝わってしまい、双方の加熱や誤解を助長する。
 また、その場がメールなどではなく、オープンな場であった場合、双方は第三者がそれを目にしていることを意識している。
 二人だけだったら、「ごめん。勘違いだった」と素直に謝れる人も、「人前でここまで言われたし、自分も言ったのだから引き下がれない」と思う人も多いかもしれない。
また、自分の怒りを多くの人に聞いて欲しいと、あえてネットに書くということもあるかもしれない。
今回も、トラブルが発生したのが掲示板でなく、1:1の対面だったらこのようなことにはならなかったのではないかと思う。

■子どもとネット

以前から、子どもにネットやパソコンの教育が必要かどうか?ということを書いていたのだが、改めてもう一度かく。
 ゆとり教育、総合的な学習 として出てきた時間の枠をわざわざ ホームページ作成の時間に割り当てて教えるほどのものではないと私は思う。
 必要があれば、大人になってからでも、自分で覚えることができる。世には「パソコン」が特技として書かれるし、中には「パソコンができる。ホームページができる」というと 「えらいわねえ」と言われることも多いと思うが、本当はテレビゲームができる人だったら多分誰でもできるだろうと私は思う。
 どちらも中身は同じだ。
しかし、テレビゲームを続けていると怒られるが、パソコンは怒られない。褒められたり、尊敬されたりすることも多い。だから子ども達がのめりこむ。という図式も考えられる。

しかし、ネットの世界はテレビゲームや、現実の世界よりも数段問題の多い社会だ。こうやってネットに日記などを書いている私からしても、普通に生活していると触れることのない人の醜い面を、ネットでは多く目にすることになる。自分から求めていなくてもそういう情報に触れてしまうのがネット。
 自分から探せばいくらでも 子ども達に好ましくない情報が見つかるのがネットである。
きちんと自己形成がされ、自ら情報の取捨選択ができるようになっていても、ネット上の情報に翻弄されることも多い。 

 このネットの嫌な面は ある意味 嘘のない人間の姿 なのかもしれないが、反面、ネットであるからこそ(多くの人の目に触れるからこそ)露悪的な趣味を持つ人がわざわざ書いているという場合も多いと思われる。
実際、ネットと決別して生活をしていると、ネットの世界は悪夢の世界であったかのような感がすることも真実だ。しかし、それはネットが悪いのではない。
ネットには、そういう欠点もあるけれども、それを補う良い点もたくさんある。
最近私は遠く離れている妹とこのネットを介してコンタクトしているのだが時間や空間という制約で接点をもつのが難しい人とも交流ができるという大きなメリットを持つのもネットなのだ。つまりは、それをつかう人間が、良い点も悪い点もネットの性質をきちんと把握していることが必要なのかもしれない。
 
 このような理由から 特に、精神的にも肉体的にも成長途上の年代の子どもたちには、ネットの「技術」を教育として教える必要はないと思える。
運転が上手でない人が 交通量が多く、車線も多く、道も複雑な場所に突然連れて行かれ運転するようなものだと思う。
(何も習っていなかった私が、コンピュータを仕事としてやってこれたわけだし、この世界の技術はものすごい速さで進んでいる。ということは、技術がすたれるのも速い。小学生から教育したとしても、大人になる頃にはそれが陳腐化する可能性も大きい。テクニックを覚えさせるよりも、思考力を磨くほうが先決だと思う)

■命の大切さ

 小学校1年の頃、長期の休みの前にそれまであまり話したことがなかった子と話をすることがあった。
映画を見たことを話して、私がその絵本を持っていたので貸してあげることにした。ところが、長期の休みが明けた後、彼は死んでしまったと聞いた。病気だったとのこと。
 夏休みがあけたらまた遊ぼうと思っていたのに、学校には彼がいない。不思議な感覚がした。

 高校のころ、友達のお姉さんが亡くなった。再生不良性貧血だったそうだ。そういう病気が身近にあったということに驚いたし、簡単に人が死んでしまうということに驚いた。

 大学の頃、クラブで事故があった。私も行こうとしていたトレーニングだったが、講義の都合で私は行かれなかった。行けた人をうらやましく思い、行きたかったと気もそぞろに講義を受けたあと、事故の話を聞いた。
同年の男の子が亡くなった。 昨日までニコニコと冗談を言い、先輩からもかわいがられていた人をそれを最後に見ることがなくなった。ぽっかりと穴があいたような気持ちがしたが、現実味がなかった。お葬式には出席したのだが、いつまでも部室のドアをあけて「こんちわ〜」と入ってくるような気がしていた。

 人の死というものに接する機会は人生にそうそうあるものではない。
人は多少のことでは死なないものだが、あっけなく死んでしまうものでもある。その「あっけなく死んでしまう」ということが理解できていない時代があると思う。

「命の大切さを学びましょう」とよく聞くけれども、やはり命の大切さは耳から聞いただけではなく、実体験を通して学ぶものなのだと思う。
 
 かわいがっていたペットが死んでしまう。もう動かない。もうこのペットと同じペットはもういない。飼えない。
そういう思いは悲しくて辛い記憶だけれども、もしかするとそういう体験を通して命の大切さを少しずつ子どもは学んでいくのではないかと思う。

 虫を捕まえたい一身で強く握ったら死んでしまった。面白がって虫の羽をちぎってしまった。テープで貼っても元に戻らない。

そういう沢山の命の経験をして、命というものは一度失われたら戻ってこないものだということが身にしみるのかもしれない。

 核家族という言葉は最近は普通になりすぎて聞かなくなってしまった。 日ごろ一緒に生活する人の人数が少なければ少ないほど、対人ストレスは減ると思える。
 たとえば、おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に住んでいない家は今は普通になってしまった。
おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に住むということは、それから派生するトラブルも背負い込むことになる。
人対人を考えた時に どんなに仲良い人同士でも、トラブルゼロということはありえない。
 結局は、お互いが許しあい、場合によってはあきらめあって暮らすということが日常的になされていると思う。
トラブルもあるけれど、楽しいこともある。そうして、おじいちゃん、おばあちゃんが亡くなったとき、喪失感を家族は感じることになる。

今の子ども達は、「ペットは飼えない。」「家族とあまり触れ合うこともない。」「話し合うこともない。」
最初からトラブルを避けた生活では トラブルの回避方法・日常的な我慢を学ぶ機会もない。
そういう 人対人 命対命の経験が不足しているのではないかと思った。

 人間は命を持って、人と関わって生きていく。 人にとって一番大切な経験は、人との関わり、命あるものとの関わりなのではないかと思った。
 
 今まで、人が人を傷付けるシーンや話は息子には避けて耳に入らないようにしてきたのだが、これからは選択的に聞かせていって、それについて親の考えを併せて伝えていく試みが必要だと今朝pon1と話した。
 どうしても入ってくる情報、それを親が隠し、言及しないということは却って良くないのではないかという結論だ。
それから、命や人と触れ合う機会も沢山与えて行きたいと思う。

 人と付き合う限り、結局は相手を受け入れ・許すということをせずには生きていけない。
それが人間社会なのだと思う。それを 息子には体験的に学んで欲しい。

誕生日 2004,6,2
昨日は私の誕生日でした。
母というものは、何歳になっても「母」なのですね。私の母は私がこの年になっても 毎年必ずプレゼントをくれます。


たぶん、私が息子ではなくて娘だからというのもあるでしょう。夫は義母へ誕生プレゼントを贈ることもなければ義母からプレゼントを貰うこともありません。
 もし、私が男だったら「いい年してお母さんから誕生プレゼントもらうなんて」と妻に言われるかもしれませんね。(^^)
 男の子の母はそういう点を気をつける必要があるなあ。

 母は 以前は私に、衣類やハンドバッグなど、[物]をプレゼントしてくれた頃もあったのですが、なかなか私の趣味にあわせるのが難しいからと、最近は現金支給が常になってきました。
子どもの頃は、「プレゼントそのもの」が嬉しかったように思うけれども、この年になってくると、何をもらうというよりも、こうやって毎年誕生日を覚えていてくれる。そうして祝ってくれるというその気持ちが嬉しいものだなあとしみじみと思いました。

 昨日も先週風邪気味だと言っていたので母に電話して、ひとしきり近況などを話してから電話を切ったのですが、夜になってもう一度電話がかかってきました。
「どうしたの?」と聞くと
「誕生日おめでとうを言うのを忘れていたから。それだけよ。」と。

ふと、息子が大きくなったときのことを想像してみました。
たぶん、私も息子の誕生日は忘れないと思います。ただ、男の子だから、たぶんある程度大きくなったらプレゼントはしなくなるでしょう。

 先日、学校へ行った折、小学校を早引けしようとする男の子に会いました。
背も私より高いのですが、お母さんが迎えに来る前に校門の外に出てしまったので、「危ないからお母さんが来るまでは校門の中で待ちなさい」と一緒だったお母さんと先生と私で促しました。
何度か言われても、なかなか彼はうごきませんでした。
そうして、彼は、自尊心を傷つけられたような顔をして
「もう6年生なんだから(子ども扱いするな)」と先生に食って掛かっていました。
子どもからしてみると 12歳で「もう6年生。一人でなんでもできる」と思っているのですね。

親からみると娘が私のような年になり、夫や子を持って世間からは押しも押されぬ「おばさん」になっていても、まだ我が子は子ども。健康に暮らしているか、幸せに暮らしているのか と、何につけても気になるものなのだろうなあと 母ー私ー息子 という関係に投影しながら感慨深い思いがしました。 

親子にしろ、夫婦にしろ、友人にしろ、相手のことを心配する・思いやる気持ちを持つ、持てるということは人間のとても素晴らしいところだと思います。
 モノが溢れているこの世で、幸せはモノを沢山もつことよりも、やっぱりそういう 人の暖かい気持ちに接して生きていけることではないかなあ。。などと思ったのでした。

本当に幸せな誕生日でした。誕生日を祝ってくださった皆様本当にありがとうございました。

怒涛続き 2004,6,1
■28,29,31

29日は子どもの運動会。28日は運動会準備手伝い(学校)31日は息子代休のため、家ですごさせるよりも、公園にでも連れて行ったほうがよさそうという判断で、近所の公園まででかけてきました。
 家にいると、息子は創造性のない遊びばかりをするし、創造性を発揮してもらうと家がちらかりまくるので、たとえ、私が、その日の朝からどよ〜んと倦怠感におそわれていて、運動会の疲れが2,3日後に襲ってきているさなかの母だとしても、自分の気持ちに鞭打って外に連れ出したほうが後々がラクなのです。

 運が良いことに、息子に友達から遊ぼうと誘ってくれる電話が入ったので、向こうのお母さんに話して2家族+子どものみ1家族 の3家族ででかけました。
 
 暑い一日でしたが、連れ出してよかった。息子は続々と手づかみで昆虫採集。
名前を知らないハムシらしいもの、ゴミムシらしいものなどどんどんと素手で捕まえます。水辺で遊んだりもして家にいるよりはずっと刺激も多く楽しくすごせたのではないかと母満足。(これにて一件落着)

■さて、6月1日
今日は、雨のなか、用事をふたつ片付けてきました。
これで、やらなければいけないこと二つクリアできた。(ふ〜)。

ついでに、100円ショップでハミガキ(上履き用)を購入しようとして100円ショップに寄ってきました。
 虫取り網があったり、(息子用に)スリッパがあったり(私がほとんど学校へ出ずっぱりなので、学校へ置いておくために)配線用のグッズがあったり(夫へのプレゼント?)ファイル買ったり、とにかくいろいろ「ココロの中では、わあ、こんなものもあったんだ」と驚きっぱなし。 いろいろ購入して、ほくほくと帰りの電車に乗ったところで、気づく。

「歯磨き粉買ってない!」 

当初買う予定でいったものを忘れてしまうって、私にはよくあることです。
トホホ。まあ、すぐにいるものでもないからいいや。。

■わかりやすく書く

先日夫がどこかのページに書いてあったものを教えてくれたのだが、ものごとを書くことについて、思うことも多いので書いてみようと思います。またもや賞味期限ギリギリですが、ご容赦を。
元ネタはどこだったか不明。(ごめんなさい)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040511-00000001-inet-sci
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040524-00000011-inet-sci

この二つの文。さっくり読んでみてどのように感じられたでしょうか。
下の方が読みにくい。書いてあることがさっぱりわからない。
そんな感じがする人も多かったのではないかと思います。

とくに、書き出しから
「Eメールを CRM の第一歩として使おう」
「インターネットバブルの頃もてはやされ、その後沈静化した感のある「CRM」というキーワードですが、...」

すでにこの時点から CRMって何?という疑問が沸き起こってきませんか?
通常は(CRM:Customer Relationship Management)などと説明を入れるのが普通かと思うのですが、それさえも入っていない。
つまり、この文は 「CRMという言葉さえ知らない人は読まないで下さい」とここで門前払いしているような状態です。

読みたくないという私の本能をどうにかこうにか記事に向けて、読んでみました。
Eメールは、比較的安価に顧客と企業の関係性を向上させる道具として利用できる。
また、かなりきめ細かい対応もでき、他の手段と比べてコストがかからないところが魅力である。eメールの効果を見直し、最大限に利用してみないか?という提案で、
Eメールには郵便のダイレクトメールなどから比べても回収速度が速く、回収したデータの分析も自動化することが簡単で低コストで行うことができるメリットがある。
また、ウエブ上で個々の顧客に対するきめこまかな対応のページを実現するよりも、メールで実現するほうがはるかに簡単であり、コストも安い。

等とあり、その例(といってもさらっと)がいくつか紹介されています。

そうして、「まとめ:どんな形で取り組むにしても効果測定は必須」という唐突な記載があって、読み手はここまで読んできて「え?効果測定が必須ということがこの文の最重要なことだったのだろうか」。

と不安になります。
が、たぶん、これは <まとめ(いままで書いたことの総括)>というよりも<注意>という方が良いような感があります。

時々、「あの人が言うことはさっぱりわからない。頭がいい人なんだねえ」などと話している人がいます。 相手に対して皮肉の場合もあるけれども、そのように言う人10人中7,8人は本当に相手がしゃべっていることが理解できなかった場合は相手が自分より頭が良いと思っているようです。

 (英語をしゃべっている外国人をみて尊敬の念を抱く日本人も同じような反応でしょうか。)

 保険の約款など、わざと相手が読みたくなくなるようにしているという説(^^;)
も、ありますが、本来は、難しいことを相手によくわかるように説明できるのが頭の良い人でしょう。 簡単なことを難しそうに書くということは、「自分をえらそうに見せる」という効果があったとしても、相手に自分の意思や論を伝えるという文章本来の目的を達成できていません。

先日の、広報の講習会のおり、講師の先生がおっしゃったことがあります。
「さらっと読んでみて、ひっかかるところは何か問題があります」

つまりさらさらと読めないところは、文がまずかったり、論がよどんでいたりします。
自分の中で論がうまくさばけてない場合や、書いている本人がわかったつもりであってもきちんと理解できていない場合、また文章の組み立てや用語の選択が悪い場合もあるでしょう。

たとえば、情報操作しようとして書いている文などでも、水がながれるごとく自然に書ければ素晴らしいのですが、どうしてもその部分に書き手のこじつけの感情がよどんでしまっているので さっくりと読めないことも多いです。論が飛躍していたり、こじつけがミエミエの感があったりすることも多々あります。

 ある意味、「そのよどみを印象づけたい。」わけですから目的は達しているかもしれませんが、文章や、論として美しくない。よく読んでみると説得力がないということにもなりかねない。「こじつけ」だということがミエミエの場合などは、逆効果だったりすることもあるでしょう。

 私なども、一人よがりの文をよく書いているし、自分では自分の文の悪いところはわからないものなのですが、私もできるだけ多くの人にわかりやすい文を書くように気をつけたいなあと思ったのでした。

公園のアジサイがとても綺麗に撮れたので。